どうもクリーンです。今回は、 紹介-未来に続く軌跡 で、
ちょこっとだけ触れていた未来に続く軌跡の開発記移動をさせていただきました。
紹介ページの続きからではありませんので、紹介ページのをみてる人もそうでない人も、ゆっくり見ていって下さい。

目次


注意


  • この開発記は脳内設定が数多く存在しています。それらは個人の勝手な妄想ではありますが、ここでは僕の世界に入っていただ
きますようお願いいたします。

  • 時々具体的な数値が出てきますが、全て目測で適当に決めています。ご了承ください。(ゲーム時間の時もあります。)

  • 時々ページがバグって下のほうが見れないときがありますので、目次もご利用ください。

開発記に入る前に


―我々塔野急行電鉄は、もともと、1948年に塔野の戦争で荒れ果てた街に、わずかな資産で作り上げた、昭和塔野軌道という
会社で、1954年に塔野の西、復興が進んだ大都市、真砂で鉄道事業をしていた真砂鐡道に吸収合併されました。しかし、
1955年には、真砂鐡道が、残り少ない資産を残して倒産してしまいました。これにより、軌道線は、再び
名を変え、塔野電気軌道となりました。さらに、戦乱の中で、資材運搬用に作られた現在の塔野線の前身である軍事用トロッコの
線路を払い下げで取得、真砂鐡道が使っていたキハ1系を譲り受けて、塔野線商栄から夢吊橋が開業しました。
しかし、悲劇は続きます。翌1956年5月29日早朝に皇光丘沖で起こった光丘地震によって、塔野線などは壊滅的な被害を
受けます。ただ、車両は、商栄駅で寝ていたので、線路上の被害個所を仮復旧して、全線徐行で運転再開を果たしました。
それから、被害個所の細かい補強が完了、さらに電化し、全線完全復旧したのは1960年でした。そこからは、経営も順調で、1971年に社号を塔野急行電鉄とし、1975年に私が社長になりました。
で、開発記は当然社長になった時点からスタートします。 ※上記は全て個人の脳内設定にすぎません。ご了承下さい。

お知らせ(随時更新します。日づけはリアルタイム、現実の時間です。内容の右がゲーム時間です。


7/25

真砂駅の塔野線運賃表を更新しました。

7/23

不死身塚駅改修工事及び有人駅化のお知らせ 

会社概要


社号:塔野急行電鉄(株)
社長:千川光雄(本名ではありません。これは脳内設定でもありません)
保有路線長:準備中
保有編成数:準備中
会社格付け:a+
位置付け:準大手私鉄

特徴


我が社は、1978年に、株式を公開し、現在は、東証一部上場を検討しています。とのこと。
そんな我が社の特徴は、
  • 準大手私鉄の中で、唯一優等列車が走っていない←待望の特急・有料特急ニュータウンライナーの運行が開始されました。
                        特急専用線での運行となり、塔野駅や夢吊橋駅といった主要駅を通らずに
                        北ルートに乗り入れて、新北塔野駅北の北塔野隧道内の分岐線から専用線 
                        に入ります。北の都市笠布に行く便もあります。
  • 準大手私鉄の中で、最も資材等を扱っている(貨物列車など)←直轄の港が二つあります。
  • 準大手の割に、不動産業は活発で、東〇電鉄のような派手なものが多い  など・・・


1975年


※この辺りは写真が一切ございません。

ドル箱路線になっていただく塔野線をまずは複線化。プランが解禁されると、夢吊橋の東行きを地下化。ファミレスとコンビニを
残しつつ、複線にしたかったゆえの苦肉の策です。そして、夢吊橋工業団地駅まで延伸しました。のあたりで1年目が終了。
予想通りの赤字・・・ 夢吊橋地下化が大きく響いた形となりました。

一年目終了時の路線図  ↓塔野線

八代 商栄 塔野川端 新塔野 塔野 夢吊橋(上り) 夢吊橋工業団地
夢吊橋(下り)

↓軌道学園線(塔野乗り換え)  
塔野駅前 塔野プラザ 塔野橋 学園前

↓軌道環状線             
消防本部前 竹林広場 医療センター前 塔野役場前

飛ばして1978年


この年の7月30日に、株式公開&総資産1000億を達成しました。
1976年度からは、黒字転換、それを維持できています。
昨年度には、皇光丘までの3駅が開業し、隠倉浦が村から町へ昇格しました。
街の発展も身に染みて感じられます。
ここからは、本気で開発を進めていきます。会社創立30th

コバルトブルータウン構想


このころから、塔野南部の川端(脳内設定)というところから、軌道線学園前あたりにかけての田んぼだらけのところを
マンション街とし、定住人口を増やそうという取り組みがスタートしました。
まずは、田んぼ所有者からの了承を得る作業。思ったよりもスムーズに行き、すぐ終わりました。
つぎは、マンションを建てるために、融資を実行、資金に余裕を持たせました。
さあ、いよいよ工事スタート…の前に、1つすべきことがありました。

そう、地下鉄建設。
この地下鉄線、じつは、1979年に、夢吊橋から震災慰霊公園まで開業しており、これに合わせて、震災慰霊公園が完成しました。
それを、川端付近を通って、塔野川端につなげようという計画である。
そして、まだ田んぼばらけの時に、コバルトブルータウン駅(完成時は南塔野)が完成しました。ここで、マンションを建てます。
今回は、資金に余裕があるとはいえ、返済期限が迫っているので、建売方式で完成させました。
そして、1982年に、地下鉄川端線が全線開業しました。
翌年には、開業35周年を迎え、1974年度で退職した元社長が「こんな短時間でここまでするとは…」と、
驚かれた模様です。(脳内設定)
また、この年には、1980年ごろに完成した車谷と商栄を結ぶ「車谷線」で沿線の古力村とのコラボで、
「古力においでよ号」が1984年夏まで走りました。

遂にやりました。いろいろな意味で。


さあ、40周年も無事に終え…たかったです。
1988年度 赤字145億円
主に手掛けた事業
新幹線誘致
そうなんですよ。ぜひ節目に、と貯金して作ったんです。(お知らせにもある)これのおかげで赤字ingとなったわけです。
まあ仕方がないと思いますし、経済発展が見込めるなら再開発でまたいつか黒字になるはずです。
平成元年(1989年)5/12に開業しました。お知らせ欄の途中駅に湖水に映る街の都市名が入っているのは、駅が少ないとしょーもないと思ったからです。湖水に映る街とつなっがっている感覚でこの分を見ていただけたら幸いです。

謎の新路線


1989年、師野町南部に突如建設されたのが、南師野線で、一編成で、運用をこなしています。
特に当てもなかったので、作ってみたんですが、師野が線路だらけになって、交通比率が上がって、すごいことになってます。
別に利益は出さないですが、損益も出さないので別にいいと思っています。

開かずの踏切問題の解消


1992年度に、師野町の師野第一踏切が線路7本を一気に渡る踏切として、危険指定踏切になっていました。
実際に3Dカメラで見てみたら列車の運行本数が多く、交通に支障が出ていました。
そんなことを受けて、踏切を廃止して、地下道を通す工事が行われました。今は名物の渋滞が起こることもなく、平和な時間が流れて行ってます。
下の師野駅紹介の写真の一番左側が最終的に7本の線路が通り、地下化された踏切です。

1986年現在の駅紹介(車谷線をUPします!)


  • 塔野線 

真砂駅(東の大都市真砂にある塔野線の始発駅)にある塔野線用の路線図・運賃表。値段は初乗り運賃から20円ずつ加算していく
仕組みです。2つだけ距離がそんなに変わらないところがあったので、そこだけ統合してみました。

師野駅

師野線の乗換駅で、駅が作られたことがきっかけで、師野が村から町へ昇進しました。
麻生の空港案(彼の勝手な妄想)はそっちのけで作られました。
塔野線随一の複雑配線で、運行計画を立てるのが地味に大変でした。一見単純な配線ですが、建設当初は、もっとごちゃごちゃしてました。当駅北側に「新師野・塔野口駅」が完成し、塔野新幹線(仮称)が通ります。

皇光丘駅

「おおのみつおか」って勝手に読んでます。資材不足でコンビニが建つのに1か月かかりました。
写真を見ると豆腐がたまってますが、これはこのあたりの開発が停滞しているからです。ほんとにそうですよ!

海浜新都心駅

副駅名は「市営ビル前」この地域初の高層ビルである市営ビルが塔急不動産によって建てられました。まぁ建売商法ですけどね。
利用者は多いですが、津波が心配とのことで、高架化されました。因みに立体交差している箇所はありません。

隠倉浦駅

「夢吊橋の対岸、ここは隠倉浦、ぜひ隠倉浦漁港へ!」という車内宣伝放送が流れます。
実際は漁港までがこの駅から離れています。漁港線でお越しください。(写真が撮られたときは構想すらありませんでした。)
現在は駅改札前のの広告に「地場産業活性化モデル都市」とあるようです。

夢吊橋工業団地駅

塔野線の中でも利用客の少ない駅です。いいとこ1日7000人。
この辺の住宅は工場の社宅だったりするので、仕方ないんですかねぇ。

夢吊橋駅

地下化されて地下鉄もできた地下に愛されている駅です。
どこぞの地下街で火災が発生したので、スプリンクラーが標準装備されました。すごーい。
今では利用客数一日20000人でもかなり少ないほうです。

樋島駅・東塔野駅

↑「おけしま」と呼んでしまいそうですが、「といしま」です。
お隣東塔野とマップ4マス分しか駅間距離がないという前代未聞の駅。これまたすごーい。
画像の左側が東塔野、右側が樋島です。

塔野駅

主要駅中の主要駅。1日5万人なんてあたりまえ。これでも1度建て替えているので、少ないほうです。
高架区間はここから樋島までです。本社有ります!(写真は建設中の物ですが)

新塔野駅

ここから久々の地上それも地べたの区間。利用者数は10000いかないんです。以外!

塔野川端駅

川の横にある川端地区の駅です。東のほうが栄えています。まぁ東には地下鉄の駅もあるし、当たり前だと思うけど。
商栄駅

塔野線の主要駅その2。判の谷線、農森線、東商栄線、車谷線が発着します。
乗り換えが途轍もなく面倒です。南の劇場の前の四角い建物は、地下鉄商環線の商栄駅です。

新商栄駅

商栄南の砂浜地帯にネタで建てた駅です。
いいとこ1日6000人。

  • 車谷線

商栄

上記参照

塔野川端 

上記参照

不死身塚

当会社唯一の無人駅です。

古力

思ったより家建ってこれです。

車谷

開発が進んで町に昇進しました。
まぁまぁ満足してます。




車両紹介

※ここは近日写真をあげますので、もうしばらくお待ちください。

  • 旅客レッド系

塔野線開業当初からある車両で、塔急最後の吊掛け式です。現在は運用を離脱して、川端赤電広場に静態保存されています。

  • 通勤型旅客列車

なぜこの名になったのかというと、単純に開発するときに、名前付けるのを忘れていただけ…だったんです。
が、おかげで、試験的要素を入れた電車としては、まあ違和感が消えたので良かったのかな?ってところです。
ほんとに試験的で、両開きドア、方向幕、など塔急初の要素が盛り込まれました。現在は、レッド系と仲良く保存ざれています。
塔急最後の普通鋼車体です。

  • 1000系(初期型)

形は通勤型旅客列車と同じです。車体がアルミとなり、軽量化を達成しました。また、この電車で、冷房化をしました。
制御装置は初の界磁チョッパ制御です。

  • 1000系(過渡期型)

現在の主力です。
導入が大幅に遅れた空気台車で乗り心地が大幅に良くなりました。また、相〇鉄道がよく使っていたあの自動窓が、
乗務員室に取り付けられました。1988年に、ソフトを初の日立gto-vvvfに更新されル予定です。

  • 1000系(後期型)

主に地下鉄に配置されています。非常扉の開閉動作が、前よりしやすくなりました。
過渡期型と同じく、ソフトを更新します。

  • 貨物列車たち

資材・魚を港まで運ぶ中央突堤線・隠倉浦貨物船、師野貨物、予備編成などが、随所で活躍しています。

  • キヤ検

どの路線でもはいれるように、気動車になっています。
幸せ運ぶ黄色い列車。走行日は無論未公開です。

  • 2000系

皆さんお待ちかねの走ルンですが塔野線に登場…といっても、205系のOME車です。
走ルンですは、判の谷線で活躍しています。また、新師野線では40周年仕様車が当社唯一の7両運用についています。
塔野線は今期に一斉に置き換えました。7両化はしませんでした。(夢吊橋駅の関係で)


  • よろしくお願いします。
    -- クリーン (2017-04-05 17:58:38)
  • 添え付けファイルの真ん中の物は、ワードに飛んでしまいます。
    上のものに、したのと同じものの写真を挙げているので、
    出来るだけそちらをご覧ください。 -- クリーン (2017-04-05 23:58:14)
  • 一番下のファイルの路線図字が汚すぎてすいません。 -- クリーン (2017-04-06 01:03:54)
  • 運賃表のロゴマークが開業100周年に一新されたロゴです。 -- クリーン (2017-05-28 14:31:22)
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最終更新:2017年07月26日 16:38