「戦刃さん、ごはん…あの、一緒に…」
昼休み。戦刃むくろはその声にびくりと肩を震わせた。まるで戦場で敵を発見した時のように素早く声のした方向に顔を向ける。
そこには若干、驚いた顔をした声の主が立っていた。
「い、戦刃さん?」
表情一つ変えずにじっと自分を見つめる彼女に彼は少なからず萎縮してしまったようだ。――何か怒らせるようなこと、しちゃったのかな。
苗木誠は申し訳なさそうに購買で買ってきたパンの袋に目を落とした。
常人ならば非礼と受け取るか、気味が悪いと感じるような行為でもそんな風に受け取るところが彼の長所でもあり、また短所でもあった。
戦刃むくろの方はというと、決して怒ってはいなかった。ただ、単純にどういう顔をすればよいのか判断に困っただけだった。
――苗木君が、またごはんに誘ってくれた。盾子ちゃんに臭いって、汚いって、気持ち悪いって言われてるのに。
彼女には、そんな風に他人に接せられた事が無かったから。
「…うん、苗木君」
むくろは相変わらず無表情のままそう答え、机の上を片付け始めた。
胸が高鳴る。少し息が荒くなって、顔が熱くなる。
「戦刃さんは何か買った?」
「これ。購買に行くと、これだけいつも余ってるの」
「あはは、僕もいっつもそれなんだ。…何でかなぁ。そんなに人気ないのかな…僕は好きなのに」
これが嬉しいってことなんだろうか。よくわからない。
「私も好きだよ、それ」
「…え?そ、そっか…だよね!やっぱりおいしいよね、これ」
…でも。でも、ここで彼がやっぱりいいや、とどこかに行ってしまったらどんな気持ちになるだろう。
そう考えると、彼女は胸が締め付けられるように痛く感じた。…やっぱり、苗木君と居ると『嬉しい』。
「…うん、きっとそう」
彼女は確認するように珍しくはしゃいでいる彼の顔を見つめながらうなずいた。
「苗木君」
その言葉は驚くほどすんなりと出てきた。苗木誠は、また驚いた顔をして戦刃むくろを見た。
「これ、半分あげる」
「え?…え、えへへ…ありがとう戦刃さん」
今、ありがとうって言ってくれた。苗木君がありがとうって。ただ、その顔はちょっといつもの顔と違った。
「どうして、そんな顔してるの?」
「戦刃さんから話してくれるのって初めてだから…え、えーと…う、うれしくって……」
「……私も、うれしいよ」
「えっ?」
「苗木君と、話せて」
だから、ここではこう返せばいいんだろう。
戦刃むくろは、少しだけ唇の両端を曲げた。それは不器用ではあったが、世間一般でいう「笑み」だった。

――――

「やっぱりさ、残念な人ってどこまで行っても残念なんだよね」

「徹しきれないっていうか中途半端っていうかさぁ…不完全燃焼だよ不完全燃焼!ダイオキシンとかガンガン出ちゃって環境に良くないんだよ!」

「世の中はエゴロジーの時代…利用できるものはどんなゴミでも徹底的に搾取(リサイクル)しなくちゃ!…どんなゴミカスでもね…ハァ~ア…」

――――

「苗木君」
ぼそり、と彼の名前を呟いてみる。ただ、その言葉は一回きりで部屋の空気の中に消えていく。
「苗木君。苗木君。苗木君。」
名前を呼ぶ度に彼女はその少年のことを思い出していく。彼の声。彼の顔。彼の目。彼の唇。
それらは全部ただの夢想でしかないのだが、彼女は少しでも彼の面影に触れていたかった。
苗木君とお話したい。苗木君にさわりたい。苗木君に見てもらいたい。苗木君と一緒にいたい。
「苗木く…ん…」
苗木君がもっと近くに居たらどんな気分なんだろう。机も挟まないで、少し動いたら触れ合ってしまうような近い場所にお互いが居たら?
…わからない。でも、嫌じゃない。
私が苗木君を見るみたいに、苗木君が私をじっと見つめてくれたりしたら。この手が、もし苗木君の手で…その苗木君の手が、私に触れてくれたら…。
「あっ…苗木、くん…」
彼女がやったことは自分の手で自分の肩を抱いただけだったが、とたんにびくりと全身が震えた。
「あっ…はぁっ…んっ…」
肩から手のひらへ。手のひらから乳房へ。乳房から腹部へと、彼女は手を這わせていく。
「苗木くんっ…苗木くっ…あうっ…」
ブラウスをはだけて、ショーツを下げて自分の手が快感を貪れるように道をあける。
興奮した蛇のように指をくねらせながら、手は外気に晒された女性の部分へと這っていった。
「―っ!あ、あっ!あっ、あ…!」
苗木君、苗木君、なえぎ…く…。
脚がけいれんしながらぴんと突っ張った後、力なくベッドの上に投げ出された。
「あ…はあ…はあ…」
戦刃むくろは室内灯の灯りを遮るように手を掲げた。ここにはいない人間に向けられた、届くことの無い手。
「苗木君」
明日になれば、苗木君に会えるのに。きっとまたお話できるのに。
「…すき」
掲げた手も、照明も輪郭がぼやけて溶け出していく。このまま眠ってしまおう。
ゆっくりと目を閉じようとしたその時、戦刃むくろの血は凍りついた。


「おっかえり~お姉ちゃんっ」


愛液に濡れた手を掴むネイルアートだらけの手。視界に割り込んでくるとびきりの…絶望的なまでの笑顔。
「……盾子、ちゃん」
そんな。今日は、街に遊びにいくんだって言ってたのに。
「あ!今さ、『遊びに行ったんじゃなかったの?』って思った?ブブー!不正解でした~。ほんとお姉ちゃんって単純だよね。頭がゼンマイ式だったりして…うぷぷぷぷっ!」
盾子ちゃんがいつもみたいに私をまくし立てる。でも、全然何を言ってるのかわからない。
「違うの…これは、違うの盾子ちゃん」
「ん?何がどう違うの?ねぇねぇ説明してよお姉ちゃん?盾子、絶望的にバカだからわかんない」
知ってる。盾子ちゃんはみんな知ってるんだ。どうしよう。どうしよう。全部見られちゃった。
むくろがまるで固まってしまっているのを見ると、盾子はますます明るい笑みを浮かべながらベッドに腰かけた。
「ひっ…」
むくろが天敵に遭遇した小動物のように身をちぢこませる。盾子は相変わらずニコニコしながらベッドの上で腰を弾ませた。
「お姉ちゃん、苗木のこと好きなんだぁ。うぷぷぷぷ、うんうんわかる、わかるよお姉ちゃんっ」
本当に、まるで子供のような無邪気な様子で盾子は姉に語り掛ける。
「実際苗木ってさぁ、女子の間だとカワイイって評判なんだよね。うぷぷぷっ…でもさぁ…でもさぁ、出会って一か月かそこらで…うぷぷぷっ、お、オカズにするってさぁ…」
「…いや…やめて…」
「どんだけ惚れてんだよって話だよね!あーっはっはっはっ!」
げらげらと腹を押さえて笑い転げる盾子。その横で真っ青になって耳をふさぐむくろ。
この構図だけで、この姉妹の力関係は歴然としていた。
「あはははっ…あーあ、笑い飽きちゃった…それでさ、お姉ちゃん。本題だけど…って何防御モードに入っちゃってんの」
むくろはじっと耳を塞いでうつむいたままだ。だが盾子がぐいっと手首をつかむとあっさりとその防御は解けた。
「やだ…お願い、盾子ちゃん…ごめんなさい…ごめんなさい…」
「あのさぁ、お姉ちゃん。日本語ってのは主語がないと絶望的に意味不明なんだよ?お姉ちゃんは私に何をお願いしたいのかなぁ?何を謝りたいのかなぁ?
…言えないなら黙っててよ。うるさいから」
驚くほどに冷たい声で盾子は囁いた。戦刃むくろはびくりと震え、もうそれ以上は何も言わない。ただじっと身を固めて床に視線を落としたままだ。
盾子はそんな姉の姿を見る度に絶望的な気分になる。何てつまらなくて、何てバカで、何て甘ったれな姉なんだろう、と。
その気になれば戦刃むくろは一人で軍隊を全滅させるくらいのことはできる。ましてや肉体的には単なる女性でしかない江ノ島盾子を葬り去ることなど造作もないはずなのに。
「ほんと…お姉ちゃんって残念だよね。『超高校級の軍人』じゃなくて『超高校級の残念』に改名したら?」
答えはカンタン。この、貧相な体で筋肉な頭脳の『お姉ちゃん』は私のことを愛してるから。たった一人の肉親だからって理由だけで。あーもう考えるだけで吐きそう。絶望的に、気持ち悪い。
「盾子ちゃんは…どうして、そんなことばかり言うの…?」
だから、私はずーっとお姉ちゃんの愛に応えてあげたんだ。私なりのやりかたで。
「それはね?…お姉ちゃんのことが、だいだいだーいキライだからだよっ!あはっ☆」
あはははっ、また泣いた。ぶっさいくな顔が一周回ってやっぱめちゃくちゃにぶっさいくだよお姉ちゃん。
「では、お泣きになられているところ恐縮ですが…本題に入りたいと思います」
さっきまで涙でぐしゃぐしゃだったむくろの顔が今度は恐怖に支配されたように強張る。
…何でこういう時はカンがいいのかなお姉ちゃん。とことん残念だね。私はお姉ちゃんの手首を強引に掴むとよく聞こえるように耳元で言ってあげた。

「苗木ともうしゃべらないで。近づくこともしないでね」

「…え」
戦刃むくろはぽかんと口を開けて妹の顔を見上げた。…絶望的なまでに眩しい笑顔。
「聞こえなかった?えーとね、ぶっちゃけさぁ、私も苗木のこと狙ってんだよね。ああいうカワイイ系って今時貴重なんだよねー。他の女子どもにも自慢できるし」
盾子は姉の顔が蒼白になっていくのを最高の気分で眺めながら続けた。
「だからさぁ…お姉ちゃんには悪いけど、可愛い妹のお願い…聞いてくれないかな?」
うぷぷぷ。迷ってる迷ってる。絶望的に馬鹿なお姉ちゃんが初恋の人(笑)と絶望的にカワイイ妹を天秤にかけて足りない頭で悩んでる。
…でもね、私わかるよお姉ちゃん。
「…じゅんこ…ちゃ…」
だってお姉ちゃん絶望的に残念だからさ。全部わかっちゃうんだよね。
「わ、わたっ…私っ…」
だから、全部用意してあるから。
「ご…ごめんなさい…わた、し…苗木君のこと、好きなの…本当に、ほんとに好きなの。好きってこと、よく、わから、ないけど…でも!でもっ……」
だってさ。ぶち壊しちゃうためにはまず少しでも形がなきゃいけないじゃない。
救いようがないくらい残念なお姉ちゃん。ありがとう、こんなに素晴らしい舞台を作ってくれて。盾子が、ものすごく、力いっぱい、きれいにぶっこわしてあげる。

――――

『苗木のことがそんなに好きならさ、証明してよ』

「あ、戦刃さん。どうしたの?忘れ物?」

『苗木のためなら何でもできちゃうって。何でも差し出しちゃうって』

「えーと…やっぱ寄宿舎に落としちゃったのかな…?せっかく買ったのに…」

『そしたら苗木のことは諦めてあげるよ。お姉ちゃんの初恋、応援しちゃうゾ☆』

「? 戦刃さん…?どうしたの?」

夕日が差し込む教室。オレンジの光と黒い影のモノトーン。一つの金属片が太陽の終わりの光を反射していた。
「…苗木君。これ」
戦刃さんが僕に何かを差し出した。教室はもう暗くなってきていて、僕は少しの間それが何だかわからなかったけど。
「えっ…?」
戦刃さんが、僕に突き出しているもの。それは、ナイフだった。料理に使うような形じゃなくて、刃にギザギザがついてて、切っ先が突き出した…いわゆる、武器のナイフ。
それを、戦刃さんは刃の部分を掴んで、金属の柄を僕に向けている。はさみを人に貸してあげる時みたいに。
「苗木君。それで…それで、私のこと好きにして…いいよ」
戦刃さんが、にこりと笑った。その笑顔は、昨日僕に見せてくれた笑顔と同じ。好きに…?このナイフで?
僕が何も言えずに固まってしまっていると、戦刃さんの顔から笑顔が消えた。
「苗木君。ほら、これ。これで、苗木君の好きなようにして。私、どうなってもいいから。苗木君?…苗木君」
戦刃さんが、まるで壊れた機械みたいに言葉をつぶやきながら、僕にナイフを突き出す。冷たい金属の感触が、手に触れた。
「苗木君。お願い。私を」
戦刃さんの手が、僕の手に絡みつく。その手はまるでナイフよりも冷たいみたいだった。

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最終更新:2013年03月21日 23:01