ソビエト連邦

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第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日にはボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。 1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンの独裁的な主導の下で高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的の収奪にもとづく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、特にウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みが政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖にもとづく支配をもたらす結果となった。 ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 第二次世界大戦では一時ナチス・ドイツと同盟を結び、バルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、フィンランドにも圧迫を加えたが、やがて同盟を破ったヒトラーに攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領され、不利な状況に陥った。しかし最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。アジアでは、終戦直前の1945年8月に日本との不可侵条約(日ソ中立条約)を一方的に破棄して参戦。満州やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ナチスドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、ロシア連邦共和国の領土は現在のロシア連邦にあたる領域になった。 戦後、ソ連は、強大なソ連軍の軍事力を背景に、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として勢力範囲に収めて、自国と同様の一党独裁を強要し、世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国と冷戦を繰り広げたが、計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾が露呈していった。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国は、そろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。 日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている[17]。なお、ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。
坂上 紀が訪れたロシアの歴史、ソビエト連邦編 第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日にはボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。 1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンの独裁的な主導の下で高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的の収奪にもとづく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、特にウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みが政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖にもとづく支配をもたらす結果となった。 ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 第二次世界大戦では一時ナチス・ドイツと同盟を結び、バルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、フィンランドにも圧迫を加えたが、やがて同盟を破ったヒトラーに攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領され、不利な状況に陥った。しかし最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。アジアでは、終戦直前の1945年8月に日本との不可侵条約(日ソ中立条約)を一方的に破棄して参戦。満州やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ナチスドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、ロシア連邦共和国の領土は現在のロシア連邦にあたる領域になった。 戦後、ソ連は、強大なソ連軍の軍事力を背景に、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として勢力範囲に収めて、自国と同様の一党独裁を強要し、世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国と冷戦を繰り広げたが、計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾が露呈していった。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国は、そろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。 日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている[17]。なお、ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。

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