古代・中世

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坂上 紀の訪れたロシアの歴史、古代、中世編
北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[13]。後代に書かれた原初年代記[14]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった[要出典]。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。
数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られており、侮蔑を込めて「モスコーヴィヤ」(モスクワ地方)と呼ばれていた[要出典]。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威をないがしろにし、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはこともあろうにポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領するという売国行為に及んだのである。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増していった。そしてついに1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮のもと、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日までにこれを一人残らず玉砕に追い込むことに成功、モスクワを解放したのであった。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の完全なる大勝利は、現在でも国民の祝日となっているのである(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているのでその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた[11]。やがてその多くは同化し[12]、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる独自の文化を築いていった。