テブリン・アルバンディ

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&setpagename(テブリン・アルバンディ Tebryn Arbandi) #image(tebryn.gif) 吾輩が耐え抜いたものと比べれば、氷の時代など楽園であった。人々が凍える洞穴に身を寄せ合い、バンノールがアガレスの地獄界で火山灰に覆われた平原を踏破しているとき、吾輩はカムロスの煉獄で裂けた地表の底に囚われていた。 カムロスは戦の神であり、その煉獄は新しい悪魔たちの試験場である。ここで悪魔たちは、地表の全土で荒れ狂う果てなき戦乱の中、混沌とした争いの技を磨くのだ。かつては高潔であった魂も、苦しみを感じたり与えたりすることに鈍くなってゆく。やがてはその行為に興じ、噴火が絶えぬ大地のいたるところで、自分より弱いどんな相手をも無慈悲に殺戮し始めるのだ。 世界を揺るがす猛烈な地震により、絶えず開いたり埋め尽くされたりしている奈落の中、戦乱の下には、戦禍の生贄が囚われる広大な牢獄が存在する。吾輩はムルカルンの泥濘を耐え忍び、マンモンの大いなる都市で試練をくぐり抜け、しかしこの世界の暴力にたちまち生贄となった。 拷問とは通常、秘密の提供や協力や裏切りなど、犠牲者に何らかのものを求めるものだ。だがこの場所は、犠牲者の苦しみを味わうためだけに我々を苦悶の中へと晒す。そして死という逃げ道を欠いた世界では責め苦が終わる望みなど一切ない。何世紀にもわたって血を流し、叫び声を上げるのだ。 ときおり噴火が牢獄に新しい抜け道を開くことがある。崩れた壁は囚人たちを地表へと解き放ち、しばしの間は責め苦から免れることを許す。 そうしたある噴火の後に、吾輩は荒野へと逃げおおせた。剥き出しの肉を切り裂く、細かいガラス片のような砂地へと。吾輩は奈落の魔獣の皮の下にうずくまり、背中に生えた角の一本を荒削りな武器として掴み取った。地獄では魔力が期待に応えることはなかった。吾輩は砂の上にルーン文字をなぞり、戒めを解かれた炎の印章を描いて、その力が生きていることを願った。かすかな炎がその中に揺らめいた。かつて吾輩が健在であった頃なら、ルーン文字から次々と炎を呼び出し、その力で都市を襲撃することもできたのだ。今やそれは弱々しげに揺らめくのみでしかなかった。 遠吠えが吾輩の集中を遮った。悪魔たちは荒野で戦おうとはしなかったが、地獄の番犬に先導された追っ手たちは、この地に逃げ場所を求めた(吾輩のような)者たちを見つけ出してしまうだろう。吾輩はルーン文字を掃き消して、荒野の中へと深く身を潜めた。 奴らは吾輩よりも身軽で、番犬は吾輩の存在を嗅ぎ取ることができる。普通の犬のように臭いを追うのではない。恐怖を嗅ぎ取る力があり、逃れた者は誰もいないのだ。吾輩が別の尾根へと這い登ると、槍を手にした暗い人影が駆け寄ってきた。その男は痩せこけて弱っており、吾輩は難なくその槍を脇へと叩き落とした。 吾輩は男を地面へと引き倒し、震える男の耳に囁いた。 「安心しろ。」と吾輩は心にもないことを言った。「お前を傷付けるつもりはない。だが吾輩たちを追ってくる番犬どもは始末せねばならんぞ。」 男は何も言わなかったが、吾輩の顔に目を凝らして、どうにか慈悲の色を見出そうとしていた。それはこの世界にあって本当に得がたい必需品であった。 「尾根の陰に隠れよう。」と吾輩は指示し、その場所へと男の背中を押して行った。「番犬が来たら、槍を構えるのだ。二人で同時に襲い掛かるぞ。」 男が尾根の陰に身を隠すと、吾輩はこっそりとその場から抜け出した。数分もすると番犬の唸り声が止んだ。それは間近であった。 読み通り、番犬は恐怖を抱く人影へと引き寄せられていった。吾輩は、番犬が尾根の頂へと登り、立ち止まって臭いや物音に注意を払う様子を見守った。吾輩でさえ男の恐怖を感じ取れるほどで、それが番犬にとっての目印となることを吾輩は知っていた。番犬が淀みのない動作で一息に尾根から男の眼前へと跳躍すると、男は槍を構えて吾輩へと助けを呼んだ。 吾輩がそれを無視すると同時に、番犬は男に襲い掛かり、たちまち八つ裂きにしてしまった。番犬にも男にも興味などなかった。吾輩はそいつと遭遇するまで待ち構えた。紫の炎を身に纏う黒い姿。番犬の後に続く、追っ手を。そいつが通り過ぎると、吾輩は跳びかかって首筋に角を突き刺した。 そいつの口から飛び出たのは、恍惚と苦痛が交じり合った、肉を断ち切る絶頂感に満ちたサディストの叫びであった。そいつは吾輩の予想よりも手ごわく、首筋から突き出た角が動きを妨げることは少しもなかった。そいつは片方の腕を振り上げて、吾輩の傍らへと繰り出した。吾輩は身をよじって躱し、次の攻撃を確認するために立ち上がった。番犬が男の死体を引きずって我々のほうへと戻り、荒野からは深紅の目をした地獄の番犬の群れが残らず姿を現した。少なくとも十数頭はいた。その追っ手は、首筋から角を引き抜くことさえしなかった。 一羽の鴉が我々の頭上を通り過ぎた。地獄でそれを目にするのは、エレバスの空に悪魔を見るくらい異常なことであった。しかし追っ手と番犬どもには効果覿面だった。追っ手どもは蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、戦利品である皺だらけの男さえ後に残していった。 鴉が地に降り立った。鴉にしては大きめだったが、異常といえるほどではなかった。鴉は吾輩を無視しながら、地面を引っ掻いたり辺りを飛び跳ねたりしていた。吾輩は角を失っており、丸腰ではまったくの無力であることを悟っていた。男が持っていた槍のことを思い出して、鴉を避けて地獄の番犬と男が争った尾根の麓へと至るため、吾輩はその場からそっと身を滑らせた。 そして吾輩は、鴉が引っ掻いていたものに気が付いた。それは戒めを解かれた炎のルーンだった。初めて鴉が吾輩へと目を向けた。 それはまさしく吾輩が描いたルーンと同じもので、完璧な仕上がりをしていた。近寄ってみると、鴉は吾輩を見つめながら頭を傾げた。息を呑んでルーンに手を触れると、すぐさま湧き上がる力を感じた。凄まじい勢いで炎の奔流がルーンから溢れ出した。炎は荒野の谷間へと流れ出し、吾輩の周囲を避けながら尾根に沿って下っていった。ルーン自体からは黄色い炎が泉のように伸び上がり、まばゆい先端は天にも届かんばかりであった。 これこそ、かつて吾輩が持っていた力であった。来るがいい、追っ手どもよ。来るがいい、地獄の拷問吏たる、そして戦争機械たる番犬どもよ。この恐ろしい世界を浄化してやろうぞ。 鴉は姿を消していた。その場所で少しだけ地面から浮かんでいるのは、紫のローブを羽織った美しい女性であった。ローブはまるで迷路のように折り目をなして彼女の周りを漂い、欲望を掻き立てるように、完璧な白磁の肌を垣間見せていた。片側しかない黒曜石の仮面が顔の左半分を覆っていた。右半分の唇はふっくらと紅く染まり、ローブの深い紫に瞳の色が良く映えていた。 「永きにわたり汝はこの地に根を下ろしたり。」 炎がルーンの中へと崩れ去った。吾輩は魔力が滑り落ちてゆくのを感じて喘ぎ声を上げ、なんとか留め置こうとして、膝から崩れ落ちてしまった。しかし魔力は抜き取られ、吾輩は再び無力となった。この地で受けた如何なる苦しみにも劣らぬ仕打ちに、吾輩は金切り声を上げた。 「返すのだ。」自分が丸腰であることを承知の上で、吾輩はそう詰め寄った。 彼女の瞳が危険な色を帯びて細められた。その身体が捩れて膨れ上がり、あるいは世界が縮んだのであろうか、彼女の姿は空一面を覆うまでになり、ローブが吾輩を取り囲んでいた。 「我はケリドウェンなり。」と彼女は語り、その声に大地がおののいた。「そして汝を、この地よりも遥かに悲惨な世界へと突き落とすこともできるのだ。汝が自由を望むのであれば、我を崇めよ。我こそが汝の鎖を解き放つ、唯一の存在である。」 そして吾輩は大地に身を投げ出し、彼女へと崇拝を捧げたのだった。 吾輩は創造界がどれほど美しい世界であるのかを忘れ去っていた。あるいは今までほとんど気にかけてこなかったのだ。吾輩が練り歩いた島は、果実がたわわに実り、樹々が青々と繁っていた。陸地には動物が一匹もおらず、ただ極彩色の鳥だけが、吾輩の歩みを嫌って鳴き声と共に飛び去るのみであった。 島の中心部には巨大な井戸がそびえ立っていた。ガレオン船がすっぽり入るほどの幅があり、世界そのものよりも深くまで続いていた。周囲の岩は古代御影石で、吾輩はそれが世界創造の基盤であり、通常の御影石よりも頑丈であることを知っていた。ここに動物は皆無であった。 吾輩は井戸の周囲を歩き始めた。数歩ごとに立ち止まりながら、岩にルーン文字を刻んでいった。それはどうということもない術式にしか思えず、さらに吾輩はこれまでの人生でかつてないほど力に溢れていたにもかかわらず、その岩に傷を付けるためには意思の力すべてを束ねなければならなかった。ルーン文字を刻むたびに休息を挟みながら、吾輩はケリドウェンの要求を繰り返し、そのひとつひとつがケリドウェンの説明どおり正確に実行されていることを確認していった。 吾輩が一周の全行程を終える頃には、すっかり夜が更けていた。吾輩は、大詰めとなるルーン文字を刻む準備が整った、最後の岩の上に立ち上がった。しかしその前に、黒い布に銀色の文字を記し、呪文を唱えてその布で目を覆った。布を通して、霊魂の世界が見えた。まさに今も、死者の霊魂が島をはるばる渡り、井戸へと身を投げて、この世界から向こう側の世界へと旅立っていった。 やがて吾輩は、最後となるルーン文字の仕上げを行った。カムロスの煉獄で嘗めた忌まわしい記憶を思い起こさせる、軋むような物音と共に、岩が動き始めた。井戸が塞がり始めたのだ。 自分たちの来世が奪われようとしている様子を目にして、慌てた霊魂が井戸に向かって殺到し、井戸の中からは羽ばたくような音が聞こえた。肌寒い風が井戸から吹き上げ、井戸の奥深くからこちらへ向かって飛翔する人影が見えた。吾輩のものと同じような布で目元を覆い、腕の周りにはずたずたの帯を編んだ、みすぼらしいドレスに身を包んだ女性。真っ黒な翼を持ち、その肌は淡い象牙色をしていた。その女性は、まるで樹々の枝葉が織りなす天蓋の隙間から差し込む、月の光のようであった。 しかし彼女の動きはあまり素早いとは言えなかった。吾輩は手を伸ばし、周りにいる全ての霊魂を自らのもとへ引き寄せ、塞がりつつある岩の表面に下書きされた最後のルーン文字へとそれを送り込んだ。障壁がしっかりと捕らえた。通り抜けようとする者を送り返す巨大な鏡。通り抜けた者を縛り付ける、不浄なる異形への変化(へんげ)。 霊魂たちはルーンの魔力源となり、その中へと閉じ込められた。彼らは泣き喚いてルーンに抗ったが、逃れることはできなかった。 呪文を試みるため、吾輩は林檎の木へと近付いた。鳥たちが井戸に寄り付こうとしないおかげで、果実は手付かずのままだった。しかし時期にはまだ早いようで、枝には緑色のほんの小さな実が生っているだけだった。 吾輩が幹に衰弱のルーンを描くと、木はすぐさま萎びて立ち枯れてしまった。枝が細く力を失うと共に、小さな林檎の実は枝から落ちてしまった。しばらくは何も起こらず、そしてやがて、木はふたたび膨らんでいった。呪文で暗く捻じ曲がったまま、以前ほどの高さはなかったが、完全に枯れ果てたわけではなかった。その枝には新しい小粒の果実が咲き乱れ、しかし今度は深い茶褐色で、互いにゆっくりと身を触れ合わせていた。 吾輩の使命が幕を開けたのだ。ケリドウェンと結んだ取引――創造界にもたらすアルマゲドンは、この地より始まる。仮に吾輩がしくじれば、地獄の永遠なる囚人へと舞い戻ることになろう。たとえ世界に破滅がもたらされようとも、吾輩は決して再び地獄の責め苦に甘んじるつもりはない。
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