ハンナ・ジ・イリン Hannah the Irin


旧支配者の幻視を授かる器としてしか価値を示せぬ、さまよえる者たち――夢巫女たちが、その小部屋を取り巻いていました。
各々が浅い眠りの中に横たわり、27本からなる細い骨製の針が身体のさまざまな部位を貫いていました。
針の中は空洞で、鯨油と不浄なる教えの香油から精製した蝋で満たされており、それぞれの芯には火が灯されていました。
融けた蝋は針から夢巫女の血の中へと染み出し、これが幻視を誘発するのです。

彼女らの語る大半は、訳のわからぬ戯言であったり、悪夢の話であったり、捩れた記憶のことであったりしました。
古の子守唄に合わせて詩句を繰り返し、想像の中の人々と語らい、誰にも理解できぬ言葉で物語を紡ぎました。
ただ時折は、それ以上の内容もありました。

そうした夢には、決まって夢巫女の絶叫が先触れとなりました。
新参の盲信者というものは、みずから夢の託宣を受け、旧支配者と直々に対話するべく、自分自身を解き放つことを考えるのが常でした――その絶叫を耳にするまでは。

やがて声が訪れました。
さまざまな声、しかし決して夢巫女のものではありえない声が。
神託が下され、狂信者たちはそれを恭しく書き留めて、眠りの傍らで礼拝を行うことになるのでした。
夢巫女たちはそうした交信から常に心を傷付けられており、ほとんどは次の巫女と取り替えられるまでにほんの二、三の幻視を得られれば良い方でした。

しかし夢巫女の扱いには掟が存在し、彼女たちは不可侵の対象でした。
食事は特別に用意されたものであり、常に清潔に身だしなみを整えられ、彼女たちを苦しめるであろう如何なる見聞にも決して晒されることはありませんでした。
――シンニアのときまでは。

シンニアは旧支配者の寵愛を受けた夢巫女で、これまでに7度の幻視を賜っていました。
九輪のコウンを除いた狂信者の全員が、彼女は更なる恩寵に相応しいという意見の一致を見ました。
8度目の幻視は彼女にとっての最後であり、旧支配者は彼女を通じて三つの声を語りました。
ひとつは脅迫的なほどの怒りの色で、贖罪が為されなければ巨大な荒波が都市を滅ぼすであろうと叫びました。
もうひとつは未来について、人類を滅びへと導く人々の恐怖、「戦場のクラーケン」について語りました。
最後の声は苦しみの中に悲鳴を上げ、他の二つの神託に遮られたせいで不完全であり、深海の狂信者たちはその神託をどうしても解読できませんでした。

狂信者たちは何週にもわたって神託の意味について議論しました。
コウンはシンニアの処刑を主張し、生贄こそが旧支配者の求める贖罪であると論じました。
彼らは来る日も海を見つめて荒波の到来を恐れました。
やがて狂信者たちは、海が退いて都市から遠のき始めていることに気付きました。
海水がどこか遠くに集められ、そして波がやってくるのです。

彼らは小部屋に急行すると、シンニアの傍らで礼拝を行い、彼らのあるじを静めるにはどうすればよいのかを問いかけました。
彼らがその場にいたのも、そのうちの一人がわずかに膨らんだシンニアの腹部を認めるまでのことでした。
魔術師が確認を行いました。彼女は身ごもっていたのです。

その日の残りは大混乱でした。
夢巫女は穢され、そして彼女たちに近付ける者は狂信者たちだけでした。
脅迫と強制のもとに、彼らは犯人を突き止めました。――九輪のコウン。

コウンは浜辺に生贄として捧げられ、波が襲ってくることはついにありませんでした。
シンニアは小部屋から連れ出され、手厚い看護を受けました。
彼女は出産で命を落としましたが、二人の女の子を産み落としました。
一人は死産であり、もう一人は生き延びました。

狂信者たちはこの子供を神殿に留めておくのは危険すぎるとの結論に達し、彼女は里子としてラヌーンの船長に託されました。
船長は、彼女が産まれる際に母親と双子の片割れを亡くしたという話を聞かされると、彼女にハンナ・ジ・イリンと名付けました。

ハンナは海そのもののように気まぐれで力強く育ちました。彼女は15のときに父親の船を離れ、次の船では船長に対して叛乱を起こして船を乗っ取りました。
彼女によって「穢されし巫女 (Desecrated Vessel※)号」と 改名されたその船は、 軍船からも 商船からも 同様に 恐れられるようになりました。
戦争が始まると、海賊たちは彼女の旗の下に集いました。
中心となる指導力に不慣れなラヌーン人は、そうしなければどうなるかを恐れるが故に、ハンナに付き従うのです。

※訳注) "vessel"には「船舶」という一般的な意味に加えて、「魂の器となる存在、神の依り代となる人間(憑坐)」などの意味がある。
最終更新:2013年03月10日 14:56
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