死の直前にかかれた母への手紙  ――レイリー波とラブ波の振幅比が水平鉛直スペクトル比に及ぼす影響についてRC構造の見地からの検討

2004年12月20日(月) 01時49分-穂永秋琴

 
 身体、精神とも健康だ。当たり前の計算や事務処理も造作なくこなせる。それでもやはり老いたこの身は若者たちほどの仕事もできず、若者たちほど知識を詰め込むこともできない。もはや期待されているほどの役目をこなすことはできなくなった。生きている意味は無い。今回起こった未曾有の大震災は、死のよい機会かもしれない。

 カタカタカタ……とビルが揺れる。擬音語では揺れの規模が伝わりにくいのがもどかしい(揺れの大きさをより正確に伝えようとするなら、ガタガタガタ……とかズズズズズ……という擬音語を用いるべきであったろうか? しかしこれらといえどもありきたりの擬音に過ぎず、揺れの規模をはっきり正確に伝えることはできない。可能な限り正確に音を文字に映そうとすれば、ンズゴログルグズィズズガゴグァタググダダンダタンダンタタタンタタダ……となるであろうが、このように一般に浸透していない擬音語は読者の理解を妨げ、悪くすれば誤解を招く可能性がある。擬音語と言えど、全くの造語を利用するのは危険を伴うのだ)。P波が発生させた初期微動だ。P波(primary wave)というのは縦波で、別名を粗密波といい、媒質の体積が変化して揺れを起こす。P波は気体・液体・固体の関係なく、高速(秒速5~7キロメートル)で伝わる。このP波によって発生するのが地震の初期微動で、遅れてくるS波(secondry wave)によって引き起こされる主要動の前兆となるものである。また、P波は表面波としてレイリー波を発生させ、地表を上下に揺らす。
 P波とS波の伝達速度は異なっているので(P波が約1.7倍速い)、震源から遠い場所では主要動の発生が遅れることになる。インターネットの情報によって震源とここまでの距離は分かっている。これによって計算すれば、主要動が発生するのは3.6秒後となる。誤差は最大0.8秒ほど生じる可能性がある。
 さて。
 初期微動だと言うのに、窓から見渡せば街は廃墟と化している。このビルが倒れなかったのは奇跡に近い(P波によって発生するレイリー波の影響をRC構造の見地から検討すれば、このビルが倒壊しない可能性はわずか3.4パーセントである)。主要動の衝撃で倒壊するのは確実であろう(S波によって生じるレイリー波とラブ波の影響をRC構造の見地から検討すれば、このビルが倒壊しない可能性は0.00001804パーセント、つまり無いも同然ということだ。ここで私の頭に浮かんだのは奇跡という言葉だった。最前、3.4パーセントの確率で起こることに対してこの単語を使ったわけであるが、果たして適切であったかどうか? ――一例を挙げれば、コイントスで5回連続で表が出る確率は32分の1、つまり3.125パーセントで、先ほど言った、今回の地震の初期微動で私のいるビルが倒壊する確率に近く、それよりわずかに低いわけであるが、この事象を奇跡と称するのは適切であろうか? おそらくコイントスで5回続けて表が出たくらいで奇跡などという言葉を使う者はあるまい。一方、主要動でビルが倒壊しない確率をこの例に当てはめてみると、コイントスで16回続けて表が出る確率、つまり65536分の1――0.0000152587890625パーセント――に近い。さて、あなたはこれが奇跡と言うのに相応しいと思うだろうか? また、ほぼ起こりえない事象だと思われるか? 全く有り得ない事象では無さそうに思えるのではないか? いや、例がまずかったかもしれない。コイントスなどということは、いつ、どこでも、何度でも行うことができる行為である。したがって32分の1はそれほど少ない確率には見えないし、65536分の1ですら起こりえるように思えるのだ。しかし、今この時、この場所、これ一回きりで、なおかつ3.4パーセントの事象が発生したというのは、やはり大変珍しいことには違いない。まして0.0001804パーセントの確率で発生する事象については、ほぼ起こりえないと言えるのだ。したがって前者を奇跡と称し、後者を有り得ないこととみなすことは、さして不適切なことではないと思われる)。まわりを見渡してみるが、3.6秒以内、乃至は4.4秒以内に安全な場所に移動することは不可能であった(そもそもこの強力な震災に対し、安全な場所を提供できる遮蔽物など存在しようか? しかし改めて考えてみれば、S波を超える移動速度を以ってすれば主要動から逃げ切ることができるはずだ。したがって、S波の速度、つまり秒速3~4キロメートル以上の速度で移動する手段が発見され、実用化され、誰でもどこでもただちに利用できるようになれば、地震による人的被害は零になることは確実だと言うことができる。世界中の科学者・技術者は、この技術の開発に全力を尽くしてもらいたい。少なくとも日本に在住する以上、地震の不安は常につきまとうものであるが、この技術さえ開発されれば、最悪でも命の保証はされ、数千人の人がその尊命を失わずに済むのである)。従って、私は3.6秒後、遅くとも4.4秒後には間違いなく死亡することとなる(そしてもちろん、この街に住む多数の人間は、私と同時に命を亡くすのだ。この事実は、死の恐怖を多少やわらげてくれるものである。ところでこういった思考は日本人に独自のものなのであろうか? 人がしているから自分も、という考え方は? また一方で、ひねくれた人間は、誰かと一緒に死ぬよりも、自分一人で死んでいくのが良いと考えるのだろうか? しかしこのひねくれた人間の思考は、他人の死を願っていないという点で一般の人間の思考より善であると考えられる。ではひねくれた人間というのは、善なる人間なのであろうか?)。

 最前、生きている意味が無いと言ったが、しかしなおやるべきことは残っているのではないか? もし無いとしても、残された3.6秒間をせめて有意義に、幸福に過ごすためには、何をすれば良いのだろうか(あと一年で、一月で、あるいは一日で死ぬとなったら何をするか? ――これは人気のある質問だ。しかしあと数秒の命だと宣告されたなら――そう、できることは限られているし、考える時間すらほんのわずかしか与えられないのだ。最後の数秒間に何をするか――これはこの世で最も難しい質問の一つではあるまいか)? 私が3.6秒以内にできることは何がある?
 やはり奇跡的なことだが、インターネットの回線は生きている。世界につながっていれば、出来ることもいろいろある。まずはいくつか考えてみよう。

  ①
 まず思いついたのは、今回の地震の規模、この地方の状況、被害の実態、現在分かっている死亡者・行方不明者の名前などを、インターネットを通じて収集し、具体的な数値に直し、再びインターネット上へアップロードするというものだ。現時点で、正確でまとまりがよく、一目して被害状況を把握できるデータは存在していない。したがって私が流すデータは国家権力や地方自治体、マスコミ、この地方に在住する親類を持つ者たちにとって貴重なものとなるであろう。
 しかしこれについては問題が三つある。まずはデータの取捨選択で、膨大なデマのなかからどう真実、及び真実に近いデータを選び取るかという問題。そしてそれが上手くいったとしても、私の流すデータが、どれほど信頼すべき情報であるかを示すのが難しいという問題。そもそも、私の流すデータをより多くの人間に示す方法がないという問題だ。これらを解決する方法は無くも無さそうであるが、それを探る時間、またデータの取捨選択、統合整理、アップロードにかかる時間を考え合わせると、とても3.6秒では足らぬ。したがって、却下。

  ②
 では映像ならどうだろうか?
 具体的には、このビルの窓から街の映像を、0.1秒乃至は0.01秒間隔で写真に撮りつづけるのだ。あるいは動画にしてもいい。そしてそれをリアルタイムでアップロードする。ひとつの街が震災によって壊滅していくさまは、確かに見る人の関心をひくであろう。
 しかしこれにも問題がある。そもそも画像や動画のデータは容量が大きく、アップロードするのに時間がかかる。光ファイバーのような通信設備があればまだしもだが、旧式コンピュータがそんなものを備えているはずもないわけで、とても3.6秒ではアップロードできないのだ(圧縮してアップロードする――という方法もなくはないが、圧縮する時間も馬鹿にならないし、リアルタイム性が薄くなってしまう。圧縮ファイルを展開する手間を見る人に与えることにもなる)。
 ついでに言えば、壊れゆく街の画像など、興味関心はひいても実地でどれほど役に立つかは疑問が残る。その点から見ても、これは却下せざるを得ない。

 ――若い連中が羨ましいと思う。ここに挙げた二つの選択は、若い奴らならたやすくやってのけるであろう。しかし私、彼らより少しだけ早く生まれた私には、それができないのだ。――だが感傷に浸っている間は無い。私には3.6秒しか残されていないのだ。

  ③
 そもそも公共のために働こうという考え方が間違っているとしたらどうだろう。3.6秒間を、とことん自分自身のために使うというのは? 例えば、3.6秒間遊び尽くすとか。
 3.6秒、そしてこのビルの中、地震が発生している最中にできる遊びとなれば、むろん限られる。真っ先に思い浮かんだのはWindows付属のゲーム「マインスイーパ」だ。このゲームの初級は数秒でクリアできる。私の最短記録は4秒だ。これを3秒、2秒、可能なら1秒に短縮するべく挑戦してみるというのはどうか?
 ――大問題があった。なんとも間抜けな展開だが、現在はLinuxが起動していたのだ。これを終了し、新たにWindowsを立ち上げるには3.6秒では足らない。特にWindowsは、起動するのに数分かかるというウスノロなOSだ。マイ○ロソフトの仕事には相変わらす嫌気がさしてくるが(今一つ、マイ○ロソフトの仕事の杜撰さを示す事例がある。マインスイーパと並ぶWindows付属の人気ゲーム・フリーセルは、クリアするとキングの映像が拡大表示されるのだが、キングの画像の背景色とゲーム画面の背景色が若干違っているのである。ディスプレーのコントラストを強くしてやってみればお分かりいただけると思う。ただ、もう一つの一人用カードゲーム・ソリティアは、クリア後のデモの動作が新型のコンピュータでは速すぎて見ることが出来なかったのだが、WindowsXP以降ではウェイトがかかるようになり、ちゃんと見られるように修正されていた。この点は評価できる)、マインスイーパのためだけにでもWindowsは捨てられない。困ったものだ。
 マイ○ロソフトを非難するのは無益であるので、ここまでにしておこう。却下。

  ④
 ふん、いっそマイ○ロソフトに抗議文を書いてやろうか……。フリーセルの背景色の問題を指摘して、杜撰な仕事をするなと罵ってやる。これは痛快ではあるまいか?
 いや、やめておくとしよう。そんなことをしたからといって、マイ○ロソフトの仕事振りが変わるわけでも、クラッカーの暗躍が控えめになることもあるまい。Windowsは相変わらずトロく、ブラウザのセキュリティは穴だらけとなろう。フリーセルの背景色問題くらいは解決されるかもしれないが……。
 馬鹿なことを考えてしまった。
 ――馬鹿らしいこととはいえ、また些細なことでもあるが、フリーセルに問題があるのは事実。抗議文は送っておくとしようか? 次回のWindowsアップデートのときには反映されるかもしれない。よし、これは時間に余裕があれば実行するとしよう。だが今は別のことを考えよう。

 考え始めると妄想はとめどもなく湧き出てくる。楽しいことは楽しいが――いや、いかん。時間は無いのだ。真面目に考えろ。

  ⑤
 もう何も思いつかない。時間も1.2秒ばかり経過してしまった。私は結局最後まで何一つ行うことなく、時代から取り残されたまま、地震によって死んでいくのであろうか。空しく生まれ、空しく生き、空しく死す。空たり空たり我ここに死す。嗚呼。――いや、意味不明だ。いかんな、焦りのあまり、正常な思考ができなくなっているようだ。嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼……。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。
 嗚呼。


 などと馬鹿なことを思っているうちに、2.4秒が経とうとしていた。いかん、何か考えろ。何か。何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 何か。
 ……やはり馬鹿だ。何も思いつかん。思いつかんどころかこんな馬鹿なことをして時間を浪費するとは、全く以って無能な奴め。嗚呼母上よ、私はもうダメです。せめて母上は幸せな生涯を送ってくださいませ。あの世でお待ちいたしますが、それが遠い日のことでありますよう。

  ⑥
 ……おお、そうだ。母上には長らくお目にかかっていない――というか、生まれて間もなくこの街へ来てから、一度たりとも会っていないし声も聞いていない。最後くらい、母上に声をかけよう。わずかな分量の文章でいい。すぐに書いて、メールで送ろう。


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 ンズガルエロギグィギゥガラガグラララタダダガダデドドゴァデダタカカカダタダァダダドォタトコカカググゴゴゴズザザズダザラロゾギグガガグゲィンズカタカタカタタ………


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 新聞はこぞって大震災のニュースを伝えた。ネットはパンク状態で、わずかな字数のメールをやりとりするにも時間がかかった。北九州に住む山藤佳苗(31)は、この日の朝、一向に受信完了しないメールに苛立っていた。
 3パーセント。15パーセント。23パーセント。47パーセント。61パーセント。79パーセント。93パーセント。……受信完了しました。
 佳苗がそこに見たのは、見ず知らずの人間からの、死別を告げる文章だった。佳苗は腹を立てて、それを削除してしまった。四年前、自分が開発・設計したパソコンの一つがそのメールを送った主であり、震災で破壊されたということなど、彼女が知るはずも無かった。



 


 (15点配分)
(9)「全体として、面白かったかどうかの報告」
( )「どこまで読んだか、その確認」
(3)「気になった部分への指摘」
( )「興味深い(面白い)と感じた部分の報告」
(3)「技術的な長所と短所の指摘」
( )「読後に連想したものの報告」
( )「酷評(とても厳しい指摘)」
( )「好きなタイプの作品なのかどうか」

・特に重点的にチェック(指摘)してもらいたい部分。
(                 )

・読んで楽しんでもらいたいと考えている部分。
(馬鹿っぽさ)

・この作品で、いちばん書きたかった「もの/こと」
(メタノヴェル風味。カルヴィーノ『ティ・ゼロ』みたいな、あんな感じを出したいと思いつつ。うまくいってるでしょうか?)

 

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穂永秋琴 2004年
最終更新:2014年03月18日 13:39