夢痕

2004年12月22日(水) 12時50分-無学

 
 呉己一郎は縫取りをしている母の、最近頓に肉が落ちてきたと思われるその肩の辺りを、凝と眺めた。
 床の間に何も置かれていない、伽藍堂の様になった寂しい座敷の中で、傾き始めた陽が射している。座敷は常よりも幾分か温かくなって、その所為か痩せた母の頬も僅かに赤らんでいる。だが己一郎はそれに構わず、ただ母の背中に向って圧力を働かせているばかりである。母はずっと無言で針を動かしていたが、やがて根負けした様に振り返って、
「どうしたのだい――」と聞いた。
  ※
 己一郎に父はいない。何でも自分が産まれた直ぐ後に、癆咳に罹って死んだそうである。子供にうつっては大事と、父は離れで療養をしながら、医者と看護婦の他、手伝いの女中だけを用いて、母でさえ滅多に座敷に入れなかったという。母は袖を絞りながら、この事を何度も己一郎に説いて聞かせたが、なにしろ物心つかぬ時分の事である。一向に感謝の念は起こらなかった。とにかく自分は生を拾って、こうして母が居て、それで充分だと、己一郎は思っていたのである。 
 己一郎は小学校から帰って来ると、よく母の傍に座り込んで、試験で一等を取っただの、級長に選ばれたのだの、手先が器用で褒められただのと、誇らしげに話をした。その度に母は針を止めて大人しく聞き入っていた。ひとしきり話が終わってからも、己一郎は暫く母の傍を離れようとしない。縫取り仕事に精を出している母の背中を眺めるのが、己一郎は好きだった。そして、その流れる様に紡がれていく刺繍が、何よりも美しいと感じていた。
 まだその時には、内職の必要がない位の財産が呉家に在った。漢学で身を興し、内閣書記官まで勤めた父が、一代で築き上げた財産である。この家もまた、父が坂の上の屋敷地の中に建てたものだ。小学校の帰り道、堂々たる構えを遺す屋敷の姿を坂の途中から見上げれば、己一郎は何とも言えぬ感動を覚えることが出来た。しかし同時に、それは顔も知らぬ父への感慨とはどうも違うように思えたのである。
 その上に母は内職をしている。故人の財に甘んじる事を善しとしない。己一郎が立派に成るまでは家を傾けるわけには行かない。それが母の口癖であった。そのためであるのか、己一郎が家の物に悪戯すると、母はひどく怒ったものである。山水画の上に墨を塗りたくったり、越前の壷を屑籠にしたり、木理の美しい柱に鑿で穴を開けたり、そんな悪戯をする度に、不断の物静かさに似ず、母は大いに説教をするのであった。
 長じるにつれ、己一郎は母の期待にそえるように、また、母の力になるように努めた。勉強も好くしたし、そんな事は男のすることではないよ、と窘められながらも、ちょくちょくお使いに出掛けた。不器用な女中にやきもきして、終いには障子の張替えから庭の手入れまで、自分で遣ってしまうようになった。
 実際、己一郎は器用だった。学校で貰った小刀を使って、そこらで拾った樹の枝に彫刻する。彫物師のようだと友達は囃した。友達の注文に応じることもあった。そんな時、己一郎はきまって、己の母さんの刺繍の方が何倍も凄いのだと言って遣るのである。
 今ひとつ、己一郎には驚異癖とでも云うべき性格が育っていた。日常の些細な事象に驚かずには居れない。興味を抱かずには置かないのである。例えば庭の草木に花が咲くのを不思議がる。蜉蝣の集くのを怪しむ。池の鯉が跳ねるのを見て、再度鯉が跳ねるのを静かに待つ。近くの河原に出掛けて、友達と一緒に上流まで遡って行った事もある。或いは廊下に走る木理の文様にじっと見入っている。這い蹲って縁側の木理を眺めながら、とうとう玄関まで出てしまった。去年の夏にも、庭に蟻の行列を見つけたので、蜿蜒と続く蟻の道を追って巣まで突き止めたところが、炎天下の中あやうく霍乱に成りかけた。これに懲りると、休日に縁側から管輅よろしく空の変化を飽きず眺め暮らした。
 一体に、己一郎が心を奪われるのは流れ行くモノであった。それは風景でも動作でも良い。川の流れのような有形のものでも、時間の流れのような無形のものでも良い。それはこの世界を貫く、最も美しく尊い一つの理のように、己一郎には思えたのである。
   ※
 冬の間に己一郎の身辺が俄かに慌しくなった。呉家に一人の男が出入りするようになったからである。その男の名は、正木といった。
 正木は初めこそ僅かな時間に家に留まるだけだった。しかしそのうち家に泊り込む様になり、そして昼になるとぶらりとどこかに出掛けて、夕方に決まって家にやって来る様になり、結句、それが日常事となった。腰が低かったのも最初だけで、正木は直ぐに横柄な性を顕した。己一郎君と呼んでいたのが、呼び捨てになり、終いには名前で呼ぶこともなくなった。
 寒さが次第に緩む頃になると、正木はますます暴威を振るう様になった。誰構わず酒を買わせに行く。酒を飲んでは、大声で喚き散らす。家の物を勝手に売る。博打を打つ。気に入らないことがあると己一郎を殴りつけて憂さを晴らそうとする。
 己一郎は正木が大嫌いだった。そして、何故母が正木の事を抛って置くのか、不思議でならなかった。問い質そうとしても、母は布に向うばかりで、一向に答える気配がない。その内に正木がやって来る。己一郎は追い出される。女中は次々と辞めていった。みるみる家は貧乏になった。
 母は己一郎に何も言わなかった。己一郎と目を合わせることも避けているようだった。
   ※
 ある日学校の帰り掛け、己一郎は坂の途中で若林の息子に会った。若林とは呉家の隣に建っている大屋敷である。息子は己一郎よりはずいぶんと年上だが、何故か己一郎に対しては愛想が良く、むやみに腰が低い物言いをする。背が高い割にやたらと細い、しまりのない顔をしている男である。己一郎はこの男も嫌いだった。
「やあ、己一郎君」
 何時もの軽薄そうな笑顔で挨拶してきたので、己一郎は曖昧に頷いて置いた。そのまま行き過ぎようとしたところが、
「何だい、あの正木という奴は。まったく人を馬鹿にしている」
 いかにも憎憎しげに、若林は云った。思いがけず正木の名が出たので、己一郎は足を止めた。
「己一郎君もそう思うだろう。非道い男だよ、奴は。お美世さんも、何時まであんな男を抛って置くのだろうね」
 美世子とは母の名である。母の悪口を言われるようで己一郎は腹が立ったが、自分も同じ事を考えているに違いないので、黙って聞いていた。
「あんな不良に眼を付けられるなんて可哀相に。よほど己一郎君も苦労しているだろうねえ。そうだ、これを持っていきなさい」
 若林はそう云って己一郎に小遣いを渡すと、また坂を下りていった。己一郎はその紙幣を握り締め、急ぎ自分の家まで駆け出した。
  ※
「どうしたのだい――」と、母は己一郎に聞いた。己一郎はそこに座ったまま、
「いつまであいつの言う事を聞いているのです」そう云い放った。
「若林さんに何か言われたのだね」
「母さん。ちゃんと僕の目を見て話して下さい」
「己ちゃん――」母は何か言い掛けたが、その後、
「御免なさいね」
 そう云ったぎり、黙って針仕事に戻ってしまった。しかし己一郎もここで引き下がる気はない。母が答えてくれるまで、動かない積りだった。再び沈黙の間があった。
 不意に、玄関の方から戸を引く音と正木の野太い声が聞こえた。
「己ちゃん」
 母は顔色を変えて、己一郎をせっついた。また己一郎を部屋から追い出そうというのだ。だが己一郎は意地でも動こうとしない。
とうとう正木が部屋に入ってきた。
「おかえりなさい、あなた」母が取り繕う様な穏やかな声で、正木に云った。「金が要るんだ」正木はただ無心の一言だけだった。
 正木は横目で己一郎を一瞥した。その切れ長の目が、己一郎の握っている紙幣に止まった。
「おいお前。この金はどうした」
「貰った」怒気をはらみながら、己一郎は答えた。
「若林だな。相変わらず豪気なことだ。そんな大金、お前には毒だな」
 そう云って正木は己一郎の手から紙幣を引っ手繰った。何か抵抗しようとした己一郎を、母の言葉が遮った。
「あなた、そんなひどい事――」
「前々から気に入らない奴だと思ってたが、あのうらなり、また陰口でもきいてやがったか。あの薄っぺらい面をふんづかまえて殴りつけてやろうか」
「でも、あなた、若林さんはいろいろと好くして下さるのよ」
 ふん、と正木は鼻を鳴らしてから、恐ろしく低い、冷たい声で云った。
「親に力があるからだろ。お前のことを好きだからじゃない」
 母の顔がいよいよ青ざめたのが、己一郎には分かった。己一郎は何か分からず、体が震えだした。
「だいたい世間知らずの坊ちゃんだ。貧乏人を見ると気紛れに助けようとして、それで好い事をしたと思いやがる。野良犬を哀れむようなもんだ」
 そう云ってから、正木は己一郎を睨み付けた。
「何時までそこに居やがる。厭味な餓鬼だな。これで酒でも買って来い」
正木は己一郎を掴み出す様に、部屋の外に追い出した。
 ※
 寂しい坂道を己一郎は歩いている。目が赤く腫れぼったくなっていて、涙が沁みる程だった。それでもまだ冷たい夜風にあてられている内に、不思議と己一郎の心は落ち着きだした。
 己一郎は考えた。何故正木が現れたか。不連続だ。何故母は正木の云う事を聞くのか。不連続だ。何故母は若林の云う事を聞かないのか。不連続だ。そんな事を考えていると、次第に己一郎の肚の裡で、熱い、泥の様な物が動いた。
 ※
 明くる日の事である。己一郎は独り、縁側に立っていた。手には小刀を握っている。己一郎はそのまま廊下に膝を突くと、小刀の先端をそこに突き立てた。それから、緩慢と、小刀を手前に引いた。厚い布を裁断するような、小気味良い音が響いた。己一郎は廊下の木理を辿りながら、幾つも幾つも、同じ様に疵を付けていった。気付いた時には玄関まで来ていた。
 その後、己一郎は庭に出た。寒気が緩んだためか、何時の間にか椿が花を結んでいる。庭に椿など植えるものではないのに、と何時か母が気味悪がっていたのを己一郎は思い出した。しかし己一郎は他のどんな花よりも、椿の花が気に入っていた。その赤い花弁の幾片が、池の水面に散っている。池の鯉もそろそろ動き出したようである。己一郎はその池の辺に、去年と同じ巣穴から這い出している蟻を見つけた。蟻は何処かに餌を見つけたようで、長い、整然とした一条の行列を成していた。己一郎はその傍にしゃがみ込んだ。そしてその黒い流れの中に指を近づけた。指先が蟻の体に触れる。今一度、力を加える。一瞬、酸い匂いが立ち昇った。蟻が二三匹潰れたのが分かった。蟻が統率を失って、周囲の列が三々五々、勝手に動き回り始めた。流れが断ち切られている。系が乱れている。いかにも無様だと思った。己一郎は笑った。水面の赤い花が揺れていた。
  ※
「馬鹿野郎、俺の家に何をする」
 帰ってきた正木は、廊下の疵を見つけるやいなや、烈火の如く怒り出した。己一郎を打ち据え、罵倒し尽くした。己一郎はじっと耐えた。耐えながら、冷ややかな目で正木を見た。己一郎は考える。馬鹿はお前だ。これは己と母さんの家だ。無様だ。滑稽だ。系を乱している――。
「この餓鬼、なんて目をしやがる」
 己一郎の態度が癇に障ったのか、正木の攻撃がいよいよ烈しさを増した。止めようとした母まで突き飛ばされた。気を失うまで己一郎は殴られ続けた。
 ※
 己一郎が蒲団の中で目を覚ました頃には、日がすっかり落ちていた。さして広くもない部屋の中。天井の黒ずみが、虫の集っているように見えた。まだ体のあちこちが痛んでいる。己一郎は体の痛みを堪えながら、緩慢と障子に手をかけた。縁側に出ると、何時もの様に部屋の灯りはほとんど消されている。その中でただ一つ、灯の灯っている部屋がある。己一郎は静かに、そこまで近づいていった。
 部屋の傍まで来ると、障子の向うから、荒い、獣の様な息遣いが聞こえてきた。己一郎は音のせぬよう、そっと障子を引いた。己一郎の正面に、正木の黒い背中が見えた。己一郎は懐から小刀を取り出した。
 次の瞬間、短い唸りと共に、正木の体が撥ね上がった。飛び掛った己一郎が、正木の背に小刀を突き立てたのだ。花の様な朱が、白い褥の上に散った。
己一郎は今一度小刀を突き刺そうと試みたが、その前に正木が振り返っていた。血走った目で睨み付けられ、己一郎は一瞬、怯んだ。その間に正木は腕を振り上げて、己一郎に掴みかかった。忽ち己一郎は畳に捻じ伏せられ、散々に打擲された。
 意識を失わなかったのが幸いだった。己一郎は正木の息が上がった隙に、取り落した小刀を拾い上げ、それを思い切り正木の胸に突き立てた。正木は犬の遠吠えの様な咆哮を残して、後ろに倒れた。己一郎は立ち上がると、冷ややかな目で正木を見下ろした。
 部屋の奥で母が体を縮こまらせている。己一郎は微笑みながら、母の傍へ近づこうとした。母が短い悲鳴を上げて、己一郎の顔を見上げた。その目が己一郎の目と合った。己一郎は驚愕した。
 ああ、母さん。如何して、如何して。
 如何して、そんな目をするのです――。
  ※
 己一郎は弾かれた様に門外へと駆け出していた。四辺には濃密な霧が際限なく満ち渡っていて、暫くは方角もたちそうになかった。


 (15点配分)
( )「全体として、面白かったかどうかの報告」
( )「どこまで読んだか、その確認」
(5)「気になった部分への指摘」
( )「興味深い(面白い)と感じた部分の報告」
(5)「技術的な長所と短所の指摘」
(5)「読後に連想したものの報告」
( )「酷評(とても厳しい指摘)」
( )「好きなタイプの作品なのかどうか」

・特に重点的にチェック(指摘)してもらいたい部分。
(                 )

・読んで楽しんでもらいたいと考えている部分。
(プレ『木目』ストーリー。陰々欝々たる話ですが割とお遊び要素も散りばめられています。)                

・この作品で、いちばん書きたかった「もの/こと」
(次からはもっと読んでいて楽しい話を書こうと心に
誓いました(違))

 

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最終更新:2014年03月18日 13:41