境界の扉

2005年01月12日(水) 00時46分-伊吹はるな

 序.2004年12月25日、土曜日

扉を開けると、日差しの明るさが目にしみた。
薄暗い大学の資料室から、ひとけのない冬枯れの中庭へ。透明な光がさえぎるものもなく、落ち葉の積もった小道の上を舞う。
見上げると、細い木の枝の上に青空が見えた。
吐く息が白く立ち上り、空の色にわずかの間かかって消える。真冬の空気は凍てついて、降り注ぐ光だけがほのかに温かい。
今日は、クリスマスだ。
そのことを僕は思い出す。天上から差す光のあかるさに、神を連想したというわけでもないのだけれど。
「もう、4年か……」
思考が、思わず言葉となってこぼれた。
ある少女のことを思い出していた。4年前の冬、クリスマスの夜に別れた少女。といっても恋人ではなく、友人だったのかもわからない。きっと通りすがりの他人よりは近い、それだけの存在だった。

出会ったのは、4年前の春。
とても良く晴れた、暖かい日のことだった――


1.2000年3月31日、金曜日

春特有のやわらかな水色の空に、吹雪のように桜が舞う。
気まぐれな風に揺られ……ひるがえり、くるくると舞いながら散る。
「綺麗な空ね」
彼女は、いつの間にかそこにいた。
何気なく桜を見上げていた僕の、その隣に。車いすに座り、その長い髪に、肩に、透き通るような白い頬に薄紅の雪を散らしながら。
彼女の瞳が見つめていたのは空だった。
「とても、いい天気」
総合病院のかたすみ、一本の桜の木の下。
見知らぬ少女の、独白めいた言葉につられて僕は、舞い散る桜の向こうに視線をむけた。空はどこまでも晴れ渡り、ふんわりと光のヴェールをかけていた。あたたかな春の日差しが淡く淡く溶け込んだ、優しい水色。
さらさらと吹き抜けていく風は春の気配を載せて、穏やかに心地よい。
「……そうだね」
なんとなく、僕は言葉に乗せて、そう返した。知らない少女のひとりごとなど、無視してもよかったのかも知れないけれど。
その日の空はとてもよく晴れて、綺麗だったから。
隣で少女が笑った気配がした。一瞬、からかわれたような気がしてそちらを見ると、丁度こちらを見上げた少女の、黒目がちの大きな瞳とぶつかる。
満開の桜の向こうから、降り注ぐのは春の日差し。その光のなかで、少女は邪気なく微笑んだ。とても嬉しそうに、きらきらと瞳を輝かせていた。
病人でもこんな顔をするのだと、少し失礼な感想を抱いたことを覚えている。
「明日も、晴れると良いね」
弾んだ声で、少女はそう言った。
僕は少し驚いて、うん、と答えた。答えてから、何だか素っ気ないような気がして、ちょうど家を出る前に見たテレビを思い出して、付け足した。
「降水確率は50%らしいけど」
少女はもう一度くすっと笑った。楽しそうに、どこか少しいたずらっぽく。
「アテにならないよ」
高い空で、鳥の鳴く声。
見上げると桜の花びらが落ちてきた。ふんわりと光る青空。花びらの薄紅色との、優しい対比。
「明日も晴れると良いな」

そうして僕らは出会い、互いの名も知らないまま別れた。少しだけ言葉を交わした、行きずりの他人として。
僕がそのとき病院にいた理由、つまり春先にひいた軽い風邪はその後数日を待たずに完治した。すぐに新学期が始まり、僕は進級して高校3年生になった。
僕が通っていたのはかなりなレベルの進学校だったから、周囲からは受験受験と圧力がかかってくる。僕は以前から憧れていた国立大学の受験を正式に決め、そのための勉強を始めた。日常は平坦ながらも慌ただしく過ぎていき、あの少女を思い出すこともない。
けれどそれは、忘れてしまったということと、同じ意味ではなかった。
そしてそれはどうやら、彼女の方でも同じだったらしい……


2.2000年7月27日、木曜日

「あ、あの時の人」
少なくない人出のなか、僕がその声を鮮明に聞き取れたのは風向きによる幸運だったのだろうか。
振り返ると、彼女はそこにいた。車いすに座り、長い髪を後ろに結い上げて。青地に赤や黄色で大きな模様を描いた、そういう浴衣を着ていた。
7月も終わりの、夏祭りの夕べ。
何ヶ月も前に一度病院であったきりの彼女を、僕はすぐに思い出すことが出来た。車いすの人間は印象的だったから。けれど迷いなく声を掛けてきた彼女のほうは、何の特徴もない男子高校生のことを、さらにはっきりと記憶していたに違いない。
――そんなに沢山の人に会う訳じゃないから……
出会う人間の数が限られているから、すこしでも言葉を交わした人の顔は忘れないと少女は言った。さして広くない公園に、ひしめき合う屋台を回りながら。両手で車いすを回す彼女の速度に合わせて、僕はゆっくりと歩いていた。
彼女は生まれつき心臓に病を抱え、ずっと入院していた。年齢は僕と同じ。ほとんど寝たきりのままで成長したため、足が弱く歩くことができないらしい。
「ねえ、あなたの名前、なんていうの?」
たこ焼きを裏返す屋台の人の手つきに目を輝かせながら、彼女は尋ねた。
「高坂翔(こうさか かける)」
「かける? って、飛翔の翔?」
「そうだよ」
「素敵」
鉄板ひとつ分、たこ焼きが焼きあがる。屋台の人がそれを勧めて、彼女は嬉しそうに財布を取り出している。心臓の病気の場合、食べるものに制限はないのだろうかと僕は考えたりする。
「私は葵。日向葵(ひゅうが あおい)」
「日向さんか」
「葵って呼んでよ。ね、翔くん」
「……葵、さん」
「そう」
彼女は笑う。僕は先の彼女と同じように、どういう字なのか訊こうとして、思い当たって眉を寄せる。
「えっとそれ……もしかしてヒマワリって書くの?」
「微妙に違うよ。向日葵(ヒマワリ)と日向じゃ逆さまだもの」
「そ、そっか」
「でも、意味はその通りなの。あのね、お母さんが、私の……っ」
楽しげだった言葉が不自然に途切れ、僕は驚いて彼女を見下ろす。彼女は車いすの上で体を二つ折りにして、歯を食いしばっていた。右手できつく、胸のあたりをつかんで、伏せた顔を苦しげにゆがめて。
屋台の明かりにオレンジ色に照らされた彼女の頬が、実はぞっとするほど、まるで血が通っていないかのように青白いことに僕はその瞬間ようやく気づく。その、体温を感じさせない頬に、なぜだか汗のしずくが伝う。
たこ焼きの屋台のおじさんが、驚いて上げる声。
僕はどうすればいいのか分からなくて身動きもとれずに彼女を見つめる。
「――葵ちゃんっ!」
すぐさま女性の声がしてたぶん彼女の付き添いの、病院の人か何かがかけつけてきた。
「言ったでしょう、あまりはしゃいじゃいけないって!」
叱りつけながらも少女の背をさすってなだめる。わずかに頷きが返ったのを見て、ほっとしたように表情をゆるめた。揺れないように静かに、車いすを押しはじめる。人混みを出るつもりなのだろう。
つりこまれたように歩き出す僕を、女性はちらりと振りむいた。咎められたのかと、一瞬思って足を止めそうになるが、女性はかすかに目を和らげて頷いた。
僕らは公園の片隅の、屋台の喧噪からは離れたところに辿り着く。古ぼけたベンチの隣に、女性は車いすを止めた。

遠く、河川敷で打ち上げられる花火が夜の空に咲き誇る。
花火大会と日が重なったせいで、今年の祭りは人出が少ない。だからこそ、彼女の外出も許可されたのだ。
「……お母さんがね」
付き添いの人に咎められて、幾分静かに彼女は話す。
「私の心臓が弱くて、あまり生きられないだろうって、お医者さまに聞いたから……。私の命が向日葵のように大きく咲きますようにって、こんな名前つけたんだよ」
打ち上げられる花火の音は、遠くてここまでは聞こえない。ただ、光の花が、次々と夜空に咲く。
大輪の、夏の花。
付き添いの女性は少し離れた場所に立っている。先ほどのような事態にならない限り、干渉してこないつもりのようだった。少女と言葉を交わす人間の存在は、どうやら歓迎されているらしい。彼女がはしゃぎだすとかそういう可能性をおいても。
たぶんそれくらい、彼女はずっと一人なんだろう。僕は漠然と想像する。
「そのおかげかな。お医者様に言われた寿命ね、実はもう過ぎてるの。だけどまだ……こうやって、生きていられる」
「……もう、命の危険はなくなったってこと?」
僕の言葉は、いい加減な当てずっぽう。ふふ、と少女は笑う。
「そうだったら素敵だなあ」
夜の空に、光の花が開く。打ち上げられた光の粒が、はじけて、大きく開く。
そして無数の雫となって落ちていく。
色を変え、形を変えて。何度も何度も咲き乱れる花は、そのたびに残像も残さず消えていった。留めようにも、とどまることがない。
すぐに、きえてしまう……。
「はやく、来年にならないかな」
おとずれた沈黙を破るように。いくらか唐突に、彼女はつぶやいた。
僕はその意味をつかみかねて彼女を見下ろす。来年が何なのかと……いよいよ受験本番、くらいしか、僕の頭には浮かばなかった。
彼女は楽しげに微笑んだ。
「だってすごいじゃない、21世紀だよ? アトムとかドラちゃんの世界だよ」
「……ドラえもんは、22世紀だったと思うけど」
子供じみた台詞に意表をつかれ、僕はそんなどうでもいいことを答えている。確かに今年は2000年だから、来年からは21世紀になるのだけれど。
彼女は僕の言葉に「そうだっけ?」と首をかしげたが、よく分からなかったらしく、まあいいやと笑って先を続けた。
「21世紀って言ったら、そういうすごい時代でしょ? 科学がすごく発達して。人間みたいなロボットとか、すごいものがいっぱいできて。まるで……魔法の国みたい。素敵じゃない?」
僕はどうとも答えようが無くて、曖昧に黙りこむ。
彼女の話は、冗談として笑い飛ばしていい類のものだった。子供じみたおとぎ話。憧れるのは良いけれど、現実になるはずのない……。
けれど、彼女にとっての21世紀は、本当にそうなのかもしれなかった。
僕にとって来るべき21世紀が、受験や進学といった予定に支配された紛れもない現実であるのとは対照的に。彼女にとって来るべき21世紀は、おとぎ話の世界に過ぎないのかもしれない。
憧れるだけで、絶対に辿り着けない、そういう世界。
そう、医者の宣告通りなら、すでに生きていないはずの彼女だ。21世紀はきっと彼女にとって、手の届かない憧れの対象だった……
「はやく、21世紀にならないかな」
楽しそうに彼女は口にする。
夜の空に咲き、瞬く間に散っていく花たちを見上げて。真夏の花の名を持つ少女は、来るべき未来を待ち望む言葉を口にする。
彼女が待つのは架空の世界だ。
それでも。
「そうだね」
僕は、そう答えた。
「もう、すぐだよ」
現実の21世紀は、すぐそこまで来ている。
憧れだけのはずだった時間に、彼女は辿り着くのかも知れない。

夜が遅くなる前に僕らは別れ、それぞれの生活に戻った。僕は塾と補習漬けの夏休みに、彼女は……おそらくは単調で無彩色な、病院での日々に。
やがて休みがあけ、学校生活がはじまる。僕は休み明けのテストの結果から、担任に志望校合格の可能性は五分五分だと告げられた。それは休み前と比べて多少マシになった程度で、夏休みの間必死で勉強してきた僕にとっては辛い宣告だった。
けれど、まだ時間はある。僕はいっそう勉強に打ち込んだ。憧れの大学にどうしても入りたかったし、友人たちのなかには僕以上に高い目標を立てている子もいた。頑張ればどうにかなると、僕は思っていた。
けれど10月に入り、そろそろセンターの勉強を始めなければという頃になると、周りの友人たちの中には志望校のレベルを下げる人も出てきた。皆、そのころには真剣に、向き合いはじめていたのだ。現実的な合格の可能性というものに。
そして、10月の半ばに行われたテスト。
勉強の甲斐あってか、僕は今までより多くの問題を解けた。手応えがあった……そう思ったのだ。けれど返ってきた結果に、僕は愕然とする。
テストの後、懇談が行われた。担任はやはり、合格の可能性は五分五分だと言った。

よりによってそんな折。僕は些細な不注意から、利き手の指を骨折してしまった。


3.2000年11月1日、水曜日

いつか出会った桜の木の下に、彼女はいた。
赤く色づきだした木の葉を見上げて……否、いつかと同じに、彼女が見つめていたのは空だった。
秋晴れの、高く澄んだ空。数羽の鳥が鳴きながら羽ばたいていく。
「……翔君」
彼女の見上げるものに気を取られた僕よりも、気配に振り向いた彼女が口をきく方が早かった。
「どうしたの? その指」
久しぶりの挨拶もなしに、いきなり言われた言葉に僕は笑う。いくぶん自虐的な意味を込めて。
「折った」
「え」
「こんな時期なのに」
「時期?」
不思議そうに彼女は首をかしげる。
「寒いのにって事?」
「違う。言わなかったっけ? 俺高3なんだ」
「……3年生だと、なにか?」
彼女には、本気で分からなかったんだろう。
ずっと病院で過ごす彼女は、学校も進学も受験も、すこしも縁がなかった。だから断片的な僕の台詞からでは、受験のことなど思いつくことも出来なかっただろう。
けれど僕は、無邪気すぎる彼女の態度が無性に気に障った。
「何のんきなこと言ってんだよ! こんなんじゃ勉強できないだろ!!」
いきなり怒鳴られて、彼女はびっくりしたように目を見開いた。
「え……っと、翔君、そんなにお勉強好きなんだ?」
「違うっ! 週末に模試なんだよ!」
「もし……?」
「テストだって事!」
なんでそんな言葉も通じないんだとイライラして僕は彼女をにらみつける。彼女には当然、意味が分からない。ただ戸惑うだけだ。
「そんなに大事なの? テストって」
「判定が出るんだよ! もし悪くなってたりしたらっ……」
「えっ、え、判定って、なんの?」
「合格判定に決まってるだろ!」
「ご、合格? って?」
「だから志望校の……」
その辺りで脱力して、僕は声を荒げるのをやめた。学校に行ったこともない病人相手に、受験がどうのと騒ぐのは無意味だとようやく気づいたのだ。
「……えっと、あのね。そのテストの結果で、俺が行きたい大学に行ける可能性がどれくらいあるかっていう判断を、してもらえるの」
何でこんな事説明しなくちゃいけないんだ、と思いながら僕は喋る。彼女は真面目な顔をして聞いている。
「うん。それで?」
「そういう判定の出るテストは、ずっとまえから何回も受けてるんだ。でも、判定結果が全然よくならない」
「うん」
「努力はしてるつもりなのに。でも、頑張っても、うまくいかない。もっと頑張らなくちゃいけないのに、怪我をして、勉強がやりにくい」
「それで、怒ってたの?」
「そう」
1から説明しているうちに、なんだか馬鹿馬鹿しくなって僕は、気が抜けてその場にしゃがみ込む。頭の上で彼女が、どうしたの翔君大丈夫? とか焦って言うのが聞こえる。車いすの彼女の声が上から聞こえる状況は珍しいな、なんてことをちらりと思う。
「五分五分って、何なわけ?」
「へ?」
突然の僕の言葉に、彼女はなんだか間抜けな声を上げた。
「合格の可能性は50%、とか言われてさ。それって、どっちなんだか全然分からないって事じゃん?」
「ん。そうだね」
「それって酷くない?」
「ん……そうかも」
真面目な顔で彼女は考える。僕はなんとなく空を見上げて、言葉をつなぐ。
「どっちかだって言ってくれたら、それなりに覚悟決めるか、自信持っていけるのにさ。半々だとか言われて……それって、要するにどっちだよ?」
確率は高くも、低くもない。それはひどく中途半端な状態だった。
少しでも高い方に傾いていれば、それは賭けようとする自信になっただろう。低い方に傾いていると分かっていれば、そのつもりで覚悟を決められた。あるいは余程低ければ、諦めるという選択もあり得た。
けれど、半分、というのは……。可能性は高くもなく低くもない。まったく分からない、と突き放されるような、そういう数字。
「……アテになんねーよなあっ。ホント」
こみ上げる苛立ちのまま、空に向かって吠えてみる。
どっちなんだかはっきりしろと、問いつめたい気分だった。誰を、なのかは分からないけれど。それが分かれば、少しは気持ちが定まりそうなものなのに。
コインの裏表と同じ確率じゃ、何も分からないのと同じだった。受かりそうなのか、そうでないのか。知りたくて仕方のない答えが、まるで運任せみたいな数字。
「アテにならないよね」
傍らでつぶやく声がした。
妙にしんみりした口調につられて、僕は彼女を見上げる。彼女は空を見ていた。赤く染まりだした桜の葉の、向こうにある空を。
雲のほとんどない空はただただ透明に晴れ渡り、澄みきった色をしている。
「降水確率も、あんまり当たらないもんね」
「……降水確率?」
気の抜けたような変な声の、僕の反問。
彼女は手を伸ばす。空へ。その透明な青に手を浸そうとするかのように、けれど、頭上の桜の枝さえ彼女の指先には触れない。
すっと冷たい風が吹き抜けて、伸ばした手の先で木の葉を揺らす。
「私、晴れた日が好きで……青空を見るのが好きで、小さい頃から、天気予報は欠かさず見てるの。明日は晴れるかな、どうかなって。晴れれば明日は元気に過ごせるし、雨だったら……もう死ぬかも知れない。そんな風に思ってた。私ね、なぜか自分は雨の日に死ぬと思いこんでたから」
青い空に届かない手を、ひらひらと振ってみて。それでも彼女の頬には笑みが浮かぶ。
「だけど天気予報なんて、そんなに当たらないよね。小さい頃はそれにいちいち腹を立てたりして……。でもそのうち、確率ってそんなものなんだなって、思いはじめたの」
「……うん」
「未来の事なんて、わからないよ。どんなに確率だしたって」
手を下ろして、彼女は僕を見た。未だしゃがみこんでいた僕を、珍しく見下ろす形になる。
そうして彼女は微笑んだ。まっすぐな、驚くほど強い瞳。
「だから、翔くんが信じたいように、信じるしかないんだと思う」
僕は黙り込む。
未来の事なんて分からない。それは10%だといわれても、80%だといわれても。結局、起こってみるまで分からなくて。
僕は大学に受かるかも知れないし、受からないかも知れない。
彼女は明日生きるかも知れないし、ひょっとしたら死ぬかも知れない。
結局、わからない、という点では未来というもののすべてが、50%とおなじなのかもしれない。
全ては不安で不確定だ。何も分からない。それが未来。
だから……信じるしかない?
「そっか……」
少しおかしくなって、息をつくように僕は笑った。
「そんなものか」
彼女の言葉は清々しく、僕はひどく気が楽になるのを感じる。そう、判定なんて、そんなものだ。どんな高い判定を取ったって落ちる時は落ちるのだし、その逆もある。
だから、信じてみるしかない。合格できると、そう思って進むしかないのだ。
「……やるしかないか。今度の模試で、判定良くなるかも知れないし」
怪我のことを考えれば、悪くなることはあっても逆はあり得なさそうだけれど。それでもそんな台詞が出てくるくらい、僕は何だか妙に前向きな気分になっていたのだ。
そして彼女は、僕の言葉に嬉しげに笑った。頑張ってね、と言って。
その言葉はそれまで担任や親やいろんな人から贈られた全ての同じ台詞より、ずっと僕の気持ちを明るくしてくれた。まるで雲間から差す、ひとすじの光のように。

指の骨折は入院するほどのものではなく、支障を感じながらも勉強を続けることができた。
成績は下がりはしなかった。かといって上がったわけでもなかったのだけれど、それでもよく頑張ったものだと思う。きっとそれは、彼女のおかげでもあった。あの会話で僕の中の焦りは消え、勉強に集中することができたから。
けれど……。この3度目の出会いのあと、彼女の容態は急激に悪化していた。
僕はそのことを、ある日の学校帰りに偶然知ることになる。


4.2000年11月21日、火曜日

その日僕は友人の家に寄り道して、普段とは反対の方角から家に向かっていた。
いつもの通学路とは違う道を、自転車で走り抜ける。総合病院の裏手を過ぎ、その近くの公園へ。住宅地のまん中にあるにしては広いその公園は、ことあるごとに子供会の行事に使われたり、お祭りの舞台にされたりする。
いつか、夏祭りが行われたのもこの場所だった。
僕は近道のため、公園の中へ自転車を乗り入れた。ここを突っ切れば、家までもうすぐだ。

風の強い日だった。もうすっかり色づいた木々の葉が風にあおられて枝を離れ、ぱらぱらと落ちてくる。
寒風の中、駆け回る子ども達の無邪気な声。
ちいさな彼らをはねないように僕は、速度を落として隅のほうを通り抜ける。風が吹いて木の葉が落ちてくる。自転車の車輪につぶされる葉の、かさかさと乾いた音。
公園の裏口付近まで来て、止まっている車いすに気づいた。
付き添いらしい女性が側に立っている。その顔にも、車いすの色形にも見覚えがあった。乗り手の姿はここからでは見えなかったが、確信して僕はそちらへ方向転換した。自転車を降り、歩いて近づく。
付き添いの女性が振り向いた。僕の顔を覚えていたのか、驚いた様子で頭を下げる。
僕は会釈を返す。強い風が、ちょうど正面から吹きつけた。巻き上がる砂が目に入る。僕は瞬きする。ぼやけた視界に、舞い落ちる木の葉。
彼女はまだ僕に気づかない。
車いすの正面へ、回りこむようにして近づく。声をかけようと息を吸い込んだ。背もたれの陰に、彼女の姿が見える。
吹き抜ける風の音。
強い横風が僕らに、叩きつけてそうして、天へと駆け抜ける。

彼女は空を見ていた。
秋の、高く高く青い空を、
ただ、
その空だけを――

僕は息をのむ。それは気配に敏感な彼女がこの距離まで近づいた僕に、なにひとつ反応を示さなかったせいでも、ひざにかけた毛布に重ねられた白い手が、無惨なほどやせ細っていたせいでもない。
彼女の瞳はただ、空だけに向けられていた。その光景になぜか衝撃を受けた。
倒しぎみの車いすの背に、深く身体を預けた少女。身じろぎもしないでそこにいる。その頭上に、遮るものは何ひとつなく。
彼女の視界はきっと空の青だけに一面塗りつぶされているのだろう。
そうして彼女は、何をするでもなく、何を探すでもなく。呼吸さえも忘れたように、ただじっと空に瞳を向けていた。
そこだけ、まるで時間が止まったかのような。
生きながらに彼女は魂を天に吸われ、もう戻ってこないのかと思った。
「……葵、さん」
呼びかけは、ひどくぎこちないものになる。
彼女はようやく気づいたように視線を動かした。のぞき込んだ僕の顔をとらえる。
とたん、それまでの静寂が嘘のような笑みが広がった。
「あ、翔君」
響いた声は弱々しく、けれど明るい調子だった。僕はほっと力を抜く。顔色は悪く、ぐったりと力無い様子だったけれど、それでも彼女はちゃんと彼女だった。生きて、僕の言葉に応えてくれる彼女だった。
「きょうは制服だね。学校帰り?」
「あ……うん。制服で会うの初めてだっけ?」
「うん。ふふ、学ランだ~。かっこいいなあ」
彼女はいすの背にもたれたまま、ゆっくりと手を伸ばした。確かめるように制服の袖に触れて、どうやら彼女、珍しがっているらしい。本物触るの初めて、などと笑っている。
僕はそれよりも、彼女の手がひどく細くやせていることが気にかかった。なんだか、少し力を込めたら簡単に折ってしまえそうだ。車いすから手を伸ばして、僕の服に触れるしぐさだけでも大変なのか、その動きはぎこちない。
「葵さん、なんか……」
痩せたね、という言葉がこの場合適切なのかどうか、考えて少し口ごもる。でも彼女は僕の言いたいことを察したらしく、少し困ったような顔をした。
「うん、病気、急に悪くなっちゃって」
言葉だけはあっさりと、彼女は答えた。けれど、血が通っていないように青白い顔をして、車いすから身を起こすこともできない彼女の状態が、そんな軽い言葉で片づくようなものでないことは明らかで。
死の影が急速に、彼女を覆い尽くそうとしているかのようで、恐ろしくなった。
「でも、良くなってきたトコなんだよ。こうやって外にも出られるし」
僕はよほど深刻な顔をしていたのだろうか、彼女はそう言って笑顔を見せた。ね? と、付き添いの女性を見上げる。
女性は一瞬戸惑ったようにもみえたが、すぐに柔らかな笑顔を返した。
「そうね、葵ちゃん。でもきょうは風も強いし、そろそろ戻らないと」
「えー。つまんない」
「ちょっとだけって、お医者様と約束したでしょう?」
子供をたしなめるように説いて、それから僕に申し訳なさそうな目を向けた。僕は了解して頷く。もしかするとあまり長く話しているのもよくないのかもしれない。彼女の状態が実際どの程度危険なのか、僕には分からなかったけれど。
じっと、空を見上げていた彼女の眼差しがよみがえる。
彼女はもう死ぬのかもしれない――
確信に近い予感が足元からざわりと這いのぼる。振り切るように、僕は空を見上げた。彼女と出会う日は晴ればかりだ。きょうも、雲ひとつない快晴。
この、晴れた空が。
ずっと彼女の命をつなぎ止めてくれればいい。
風がまた吹き付けた。その勢いと冷たさに、僕は思わず首をすくめる。
青一色の空に、黄色や茶の枯れ葉が舞う。何気なく出所を探せば、それは公園中央の大きな木。枝を離れた葉が宙に放り出され、気紛れな風に遊ばれてくるくると舞う。
僕は枯れ葉たちの動きを目で追っていた。落ちるかと思えば、風にもてあそばれて上昇し、また降りてきて、けれどふたたび風にすくわれて……。ただただ、風に身をゆだねて踊り続ける枯れ葉たち。
『未来のことなんて、わからないよ』
なぜだか、彼女の言葉を思い起こした。
気紛れな風は、まるで運命。枝についていた葉を引き離して、思いのままに弄ぶ。すくい上げたかと思えば手放し、また持ち上げたり、揺らしたり。目に見えない、逃れることのできない流れ。
僕らはその風に弄ばれて、先の見えないダンスを続ける木の葉。自分ではどうすることもできずに……
「すごいね」
突然に彼女が言った。いつのまにか、僕と同じ枯れ葉たちを見上げて。
「……なにが?」
「だってホラ、あんなに高く……。もといた木の枝よりも、ずっと高いところまで飛んでいける」
もし彼女がもっと元気だったら、いつかと同じように空に手を伸ばしたのかもしれない。そう思わせるような、弾んだ声で言葉を続ける。
「たんなる、風のイタズラでもさ。あんなに……空に、近づける」
見上げると、遙かな高みを枯れ葉が舞っていた。高く、高く風にあおられて。公園の木々の梢より、ずっと高く。
どこまで、昇るのだろう。少し不安になるくらいに。風は枯れ葉を舞い上げ、遠く、高く運んでいく。
まるでそのまま、青空へ吸い込まれていきそうに。
「それってなんだか、すごい事だと思うの」
静かに微笑むような調子で、彼女はつぶやいた。
「……たとえ、最後には地面に落ちるしかないとしても」

付き添いの女性に車いすを押してもらって、彼女は病院へと帰っていった。
その後姿を見送りながら、僕はとても漠然と、思う。彼女にはもう二度と会えないんだろうなと……。
だから彼女の姿が見えなくなるまで、ずっとその場所で見送っていた。風の舞い上げた落ち葉が、ぱらぱらと降ってくる、そのなかで。
けれど、そのときの僕の予感は、あたらなかった。
僕はもう一度だけ彼女に会ったのだから……


5.2000年12月25日、月曜日

公園はクリスマスの電飾に彩られ、華やかに輝いていた。
冬休みが始まって、まもなくのこと。塾の冬期講習へ行った帰り、僕はまた近道のために公園を突っ切ろうとしていた。
毎年クリスマスの前後、この公園はライトアップされる。今日がちょうどそのクリスマスであるためか、あちこちにカップルや親子連れの姿が見えた。混みあうというほどではなかったけれど、塾帰りに通る夜の公園にしてはにぎやかだ。
暗い夜空の下、様々な色の電球で飾られた公園は幻想的な明るさに包まれて、まるでどこか別世界のようだった。
その光景になんとなく心が浮き立つのを感じながら、僕は足早に公園を抜ける。裏口の近くまで来た時、青いライトで飾られた木の下に止めてある車いすに気がついた。

ちかちかと瞬く青色の光をうけて、彼女はどこか、この世のものではないような様子で佇んでいた。
付き添いの人の姿は見あたらなかった。ひとりで、ここへ来たのだろうか。尋ねると彼女はおかしそうに笑った。
「実はね、こっそり抜け出してきたの」
「えっ。……だ、大丈夫なの?」
「う~ん、そろそろ騒ぎになってるかも。でもここにいるってすぐ分かると思うよ? 誰かもうすぐ連れ戻しに来るんじゃないかな」
僕が訊きたかったのはそういうことではなくて、彼女の体調のことだったのだが……。けれど少なくとも見た目には、かなり元気になったように見えた。電飾のせいで肌は青くみえるが、前ほど痩せてはいないし、話す口調もしっかりしている。だいたい、ひとりで車いすを使ってここへ来られたわけだし。
「ちょっと、よくなったの? 病気」
尋ねると彼女はこくんと頷いた。ただ、そこに笑顔はない。
嬉しくはないのだろうか?
奇妙にかたい横顔に、僕が何かを問いかけるより早く。全然別の話題を、彼女は振ってきた。
「ねえ前、受験の話してたよね」
「え? うん」
「あれ、結局どうなったの? 合格した?」
好奇心、というよりもひどく真剣なまなざしで訊かれて、僕は当惑する。センターさえまだなのに答えられるはずがなかったし、なにより彼女がそんなことに関心を寄せる理由が分からなかった。
「受験って、2月なんだ。だからまだ」
「えっ、そうなの? そんなあ」
「……それが、どうかしたの?」
妙にがっかりした顔をする彼女に、僕は問いかける。
木の電飾がちかちか光って、うつむきがちな彼女の姿をまたたきながら照らした。淡い青の光は、彼女の好きな青空よりは深海の青を連想させる。そういう、少し深めの、透き通った光。
彼女は少しの間、黙っていたが、唐突にぽつりと言った。
「手術を受けることになったの」
僕は驚いたけれど、それよりもどちらかといえば混乱した。手術を受けるという事のもつ意味がよく分からなかったのだ。それで病気が良くなるなら、喜ばしいことのはず。けれど、彼女の様子は、嬉しそうではなくて……
危険、なんだろうか?
思った僕の予想は的中した。
「成功率は50%、だって」
同じ、つぶやくような調子で彼女は口にした。
……彼女の話を要約すると。
彼女の病状はもう随分悪化していて、かなり危うい状態なのだという。今現在はだいぶ調子が良いけれど、これはほんの一時のもの。
手術をしなければ、彼女は死ぬ。そしてその手術を受けるには、今がおそらく最後のチャンスなのだそうだ。ここまで状態が安定することは、今後もうないだろうから。
けれどその手術は難しく、医者の話によれば、成功率は50%。失敗すれば当然、命を落とすことになる。
「手術はね、31日だって。夕方から始まって、翌朝までかかるって」
最大限急いでその日になったのだと、そう彼女は説明する。病院側や手術医の都合もあるが、予備手術など色々やらねばならないことがあるそうだ。明日辺りから本格的にその準備に入ることになる……。
静かな口調で、彼女は話をしていた。まるきりすべて受け入れたみたいに、穏やかに説明してくれた。
けれど。
生きられる確率は、50%。それは僕には想像もつかないほど、途方もない数字だった。
僕にとっての50%は、ひどく不安で曖昧で、けれど賭けるべき数字だった。
彼女にとっての50%は?
生きられる可能性が、半分。死ぬ可能性が、半分。
それでも賭けなければならない数字。
逃げ出す術はない。生きるか、死ぬか。半々の確率の、ちょうどその境目に彼女は立っている。
高くもなく低くもなく、ただ途方もなく重い、確率の前に……
徐々に呼吸が出来なくなるような、苦しさを感じながら、僕は彼女を見つめていた。今はただ事実だけを述べる、しずかな少女の横顔。
どうしてここへ来たのだろう、と思った。
たったひとり、光あふれるこの場所に来て。彼女は何を想っていたのだろう。
「21世紀が」
言いかけた言葉がのどにひっかかり、変な声になる。彼女は静かに視線を上げた。え? と聞き返す。
「もう、あと何日かで……くる、から」
僕はあの夏祭りで、彼女の話した未来を思い出していた。来るべき21世紀。それは単なる、夢物語に過ぎなかった。
とおいものとしてただ、憧れていた時間。
けれどいま、それはすぐ目の前に来ている。
「前に葵さん、言ってたじゃないか。すごい世界が来るって。楽しみにしてたんじゃないの? 21世紀が来るの、待ってたんだろ?」
彼女は、すこし驚いたように僕を見上げていた。驚いた目をしたまま、それでも僕の問いかけに、小さく頷いた。
僕は何か、焦げるような奇妙な、もどかしさにも似た気持ちで言葉をつなぐ。
「だったら。ちゃんと……それまで、生きてなきゃ」
成功率は50%と、宣告されたとしても。
未来など分からない、そう言ったのは彼女だ。信じるしかないと……信じたいように信じればいいと、彼女は僕に言ってくれた。
だから。
「あのさ」
急に僕は思いついて、手帳をとりだして走り書きする。ページを破って、きょとんとした顔で僕を見上げている、彼女に渡した。
9桁の、数字の羅列。
「21世紀になったら、連絡して」
ちゃんと、生きて。
生きて21世紀を迎えて、そして僕に教えてほしい。夢だと思っていた魔法の世紀に彼女が、辿り着けたことを。
いつか話したその時間へ辿り着いたことを。
「待ってるから」
それが僕に出来る、きっと精一杯のことだった。
信じることくらいしか、僕らには出来なかった。確率なんてあてにならない、不確定で不安な未来のために。
だからせめて僕は、信じようと思った。彼女が21世紀に、生きていられることを。
怪訝そうに僕の携帯の番号を眺めていた彼女は、顔を上げて微笑んだ。またたく電飾の光が、大きな瞳に映りこんできらきら揺れた。
「うん」
僕のメモをそっと、手のひらに包み込んで。
「連絡するね」
深海を思わせる光のなかで、彼女はまるで、青空のように晴れやかに笑った……
公園の入り口の方で、人の騒ぐ声が聞こえていた。葵ちゃん、と呼ぶあの付き添いの女性の声がする。
彼女はそちらに視線を向けると、あーあ、とつぶやいた。
「時間切れ、かな」
彼女は器用に車いすを操り、くるりと向きを変えた。ちょうど公園の中心へ向き直る形となる。つられて僕もそちらに目を向ける。
公園のなかは、光に満ちあふれていた。夜の闇の中、ただここだけが。
「この光も後何日かで、消されてしまうけど」
つぶやくような言葉が、耳に届く。
「来年もまた、灯るんだね」
何人かの人間が、こちらに駆け寄ってくる。白衣の人や、あの付き添いの女性の姿も見える。ゆっくりと車いすを回しはじめながら、彼女は言った。
「もう行かなきゃ。……じゃあ……」
かすかな、ためらいと。
それから微笑みの気配を含んで。
「またね」
そのまま進み始める彼女の背に、僕は声を掛ける。最後にもう一度。
ひとつの、祈りを込めて。
「また……来世紀に」
彼女は、頷いたようだった。それから振り返らずにゆっくりと、進んでいった。
たくさんの光に彩られた、クリスマスの夜のなかを。


6.2000年12月31日、日曜日

受験生だとは言っても今夜くらい、ということで僕は、居間で家族と共にテレビを見ていた。
暖房の効いたあたたかい部屋で、恒例の番組を見て盛り上がる。母の作った年越しそばを食べて、それからみかんを食べる。
毎年変わらない、大晦日の夜。
妹はお気に入りの歌手の曲がたくさん聴けてご満悦。父は最近の芸能界の風潮について語りだし、母がそばの後かたづけをしながら相手している。いつも早寝の祖母はもう眠くなったらしく、ソファにもたれてうたた寝している。
僕は何だかんだで単語帳を手にしたまま、ぼんやりとテレビ画面に目を向けていた。
代わり映えのしない番組、いつも通りの年越し。時計の針がひとつずつ、新しい年に近づくのを見つめても、この空間にいてはさしたる緊張も感じられない。
いや、それが正しいのだろう。家族で迎えるお正月、そういう空間に、緊張感なんて物は必要ない。
時計の針は、ひとつずつ進んでいく。
相変わらずにぎやかなテレビの音。
このまま年が変わるのだろう。

テレビ画面の中で芸能人が、カウントダウンを叫ぶ。
大晦日の夜、日付の変わる瞬間。
それは年の変わり目であり、そして、世紀の変わり目。

今、彼女は生きているのだろうかと、ぼんやり思う。

テレビの中から歓声が聞こえ、大げさな司会が年の変わったことを告げる。あけましておめでとう。繰り返される、毎年の挨拶。
僕は立ち上がった。驚いた顔をした妹に、勉強するからと言って部屋を出る。居間の扉を閉ざすと、テレビから流れる騒音はふっと遠ざかった。
年が明けたといっても、何も起きないし何も変わらない。その瞬間はあっけなく来て、あっけなく去っていった。
新年。今はもう、21世紀だ。
……だから何なんだろう?
何も変わらない。僕のいる場所はいつもの空間だった。もちろん、急に夢みたいな、高度科学技術の世界がやってきたりはしない。
当然だ。僕だってそんなこと、期待していた訳じゃない。
けれど……それでも。
あまりにもあっけなく、当たり前に僕は、その時間のラインを飛び越えた。まるでそんな境界には、なんの意味もないみたいに。
僕は玄関のドアに視線を向ける。外の天気は分からない。雨音は聞こえてこないが、それは大雨が降っていないということを保証するだけだ。年末とはいえ勉強に追われる僕は、天気予報もろくに見ていなかった。
確かめる気にはならなかった。僕は階段を上り、自室にこもって勉強を始めた。


終.2004年12月25日、土曜日(2)

「高坂! おまえ、卒論できたのかよ?」
突然の呼びかけに、僕は振り返る。
資料室の扉から、一人の青年が顔を覗かせていた。大学に入ってすぐの頃からの、僕にとっては一番つきあいの長い友人だ。
「まだだよ。そんなに早くできるわけ無いじゃないか」
「っておまえ、のんきだなー。提出もうすぐだぜ?」
「ちゃんと、間に合うようには考えてる」
余裕だな、と悔しそうに友人がつぶやく。彼のほうは卒論に四苦八苦していることを、僕はよく知っていた。もっとも彼の場合、取りかかりが遅すぎるのだ。自業自得だと、しょせん人事の僕は思ったりする。
真冬の風が、中庭に吹き抜けた。僕はさっきから外にいたから慣れているけれど、友人の方はそうはいかなかったらしい。「うへぇっ」と妙な声を上げて首をすくめる。
「寒~っ。……おまえ何してんだ? 外なんかで」
「息抜きだよ。資料ばっか見てても疲れるし」
答えた言葉はけして嘘ではなかったのだが、そういえば息抜きの割には随分長いこと、ここでぼうっとしていたような気がする。そう、彼女のことを考えていたから。
友人は呆れた顔をした。
「寒くないのか? おまえ、冷血動物か?」
「冷血動物だったら冬眠してる。……悪いな。すぐ戻るよ」
僕の言葉に、彼はいちおう納得したらしく「おう」と答えて首を引っ込めた。つまるところ彼は、なかなか戻らない僕を心配して声を掛けてくれたのである。これでけっこういい奴なのだ。
扉が閉まるのを見とどけて、僕はもう一度だけ空を見上げる。

結局、僕の携帯に彼女からの連絡はなかった。
しばらくしてから僕は総合病院を訪れ、日向葵という名の少女がもうそこにいないことだけを確認してきた。50%の確率で、彼女は死に選ばれたのだ。
僕は五分五分のまま、憧れていた大学を受けた。結果は不合格。僕はしぶしぶながら、滑り止めで受けた私大に入学した。
大学生活は予想以上に楽しかった。当初こそ目指していた大学に入れなかった不満を抱えていたけれど、やがてそれも無くなった。今では、ここに入れて良かったとすら思う。未来なんて分からないものだ、本当に。
……彼女は、21世紀を迎えたのだろうか。
すべての結果が出た今、そのことがなぜか気にかかる。
僕が平和な居間でその瞬間を迎えた、その同じ時に。彼女はまだ生きていたのだろうか。それともすでに、死んでしまっていたのだろうか……。
僕にとっては、虚しいほどにあっけなかった境界線。けれど、彼女にとってはどうだったんだろう?
ほんの1秒でも、ひと呼吸でも、彼女はそこにいられたのだろうか。夢のように思い描いていたその時間に。
知るすべはない。彼女の手術がどんなものだったのかも、どうして命を落としたのかも、僕には分からない。だから、午前0時の段階で彼女が生きていられたかどうか、見当もつかなかった。
「結局これも、50%か……」
どちらかにより多くの可能性を見いだす根拠はない。だから、まったくわからないこの状態は、しいて数に表すならそういうことになるんだろう。
彼女が21世紀まで生きられた確率は、50%。
そればっかりだな、と僕は少しばかり苦々しく思う。半々の賭は今のところ、悪い結果ばかりに傾いていた。彼女の手術は失敗し、僕は大学に落ちた。僕の場合それが悪かったとも言い切れないけれど、願い通りにいかなかったのは事実だ。
だとすると、やはり彼女は21世紀を迎えられなかったのだろうか? そんな気もしていた。半々の賭に、僕らは敗れてばかりだから。
けれど……。

『明日も、晴れると良いな』
初めて彼女と出会った翌日、僕はその言葉を思い出していた。降水確率は50%だと、そう予報されていたあの日。
友達との約束があって、軽い風邪を無視して出掛けようとした僕は、玄関を出た瞬間にあの、印象的な車いすの少女を思った。
なぜなら、開いた扉の向こうに、まぶしい程の光があふれて……。
その日の空は柔らかく優しく、彼女と見上げた時と同じように、晴れ渡っていた。

真冬の風が吹き付けて、枝の先に一枚だけ残った木の葉を揺らす。
僕はひとつ頭を振り、真っ青に凍てついた空から、資料室のほうへ視線を向ける。いい加減戻らないと、と思った。また友人が心配するかも知れないし、だいいち今日中に仕上げる予定の部分が終わらなくなってしまう。
書きかけの論文のことを思って、僕は資料室に向けて歩き出した。焦るほどではないけれど、期限は近い。教授から練り直しを求められた部分もあるし、まだ調べたりない事柄もある。どの資料にあたればいいかなと、僕の頭はそんな事柄にすぐ支配される。
結局、彼女が21世紀まで生きていたのかどうかなんて分かりようがないし、それは僕にとって一面どうでもいいことだった。なぜなら、結果がどちらでも、僕の日常には何の変化もない。
思えば、彼女との関係はずっとそんなものだった。彼女が元気でも、病に苦しんでも、死んでしまっても、僕の日常は変わらなかった。当たり前に学校へ行って勉強して、テストを受けて。正月も迎えて、受験をして進学して、今は卒業しようとしている。
彼女との出会いは僕にとって、日常を変えるほどの事件にはなり得なかったし、彼女の死は知らないうちに過ぎた事象のひとつだった。勿論、僕が彼女のために泣くようなこともあり得なかった。
きっと友人とさえ呼べない。ときおり偶然のように、言葉を交わしただけの他人。
けれど、なぜだろう。
晴れ渡った空を見上げるたび、僕は彼女のことを思い出す。
日常の裏側で接した、青空の好きだった少女のこと。それは彼女への追悼でも何でもなく、ただ何とはなしに、思い出すというだけのことで。
きっとこれからも、そうなのだろう。祈ることはないけれど、忘れることもしないで。ただ時折偶然のように、思い出すだろう。
「お、高坂。おかえり」
資料室の扉を開けると、近くの本棚をあさっていた友人が呼びかけてくる。僕はただいまと答えて、薄暗い室内に足を踏み入れた。背後でゆっくりと扉が閉じていく。僕はすぐそばの自分の机に座り、書きかけの論文に手を伸ばす。
作業に戻る前に、もう一度、入り口のほうを振り返った。
閉ざされる寸前の、扉の向こう。晴れた空から降り注ぐ淡い色の日差しが、冬枯れの中庭をしずかに照らしていた。


 (15点配分)
( )「全体として、面白かったかどうかの報告」
( )「どこまで読んだか、その確認」
( )「気になった部分への指摘」
( )「興味深い(面白い)と感じた部分の報告」
( )「技術的な長所と短所の指摘」
( )「読後に連想したものの報告」
( )「酷評(とても厳しい指摘)」
( )「好きなタイプの作品なのかどうか」

・特に重点的にチェック(指摘)してもらいたい部分。
(                 )

・読んで楽しんでもらいたいと考えている部分。
(                 )

・この作品で、いちばん書きたかった「もの/こと」
(                 )

泡原稿です。なぜか投稿に失敗し続けて3回目のトライ……
日付変わってしまいましたが間に合ったことになるんでしょうか。
テーマは「来るべき21世紀」です。

最終更新:2014年03月18日 13:50