晴れた日は柄の長い傘を持って

2005年01月14日(金) 15時45分-木組

 ・1(黒)
 晴れた日は嫌いだ。何故って、雨はいつだって晴れた日に降り始める。

「なによそれ。ていうか、どっちかって言うと曇りの日にじゃないの?」
 光原はそう言った。
「晴れた日に雲が集まってきて、それで雨が降る」
「…風が吹けば桶屋が儲かる、みたい。じゃあ、曇りは嫌いじゃないの?」
「最初から曇りなら、ハラハラしなくてすむから。もちろん雨でも」
「なによそれ」
 光原はそう繰り返した。水知は苦笑する。
 空を仰ぐ、今のところ、雲ひとつない空。それを、困ったように見つめる。
「要するに、雨男ってやつ?」
 空を見上げる水知をさらに見上げて、光原は――どちらかといえば楽しそうに――そう聞いてきた。しいて否定する気もなく、水知は答える。
「鋭い」
「こんな日に傘持ってるの、雨男か天気予報に恨みがある人間くらいでしょ」
「水をかぶると正体がばれる奴かもしれない」
「六月は登校拒否ね」
「他人と違う人は、余計な苦労をするものさ」
「経験者は語る?」
「雨男だからね」
 何の気なしに手のひらで傘をまわすと、光原はすごいねと感心した。雨男の特技というのは、傘の扱いくらいだ。まったく役に立たなさそうなものだが、手持ち無沙汰な登校時の友くらいにはなるようだった。

 雨男。100パーセント望んでいないタイミングで雨を降らせることができる、稀有な能力の持ち主。新しい靴を履いた日、包装が紙袋の本屋で買い物をした直後、遠足の類は当然のこと、ありとあらゆる絶妙に不幸なタイミングで雨が降る。
 なかでも、傘を忘れた日の雨天率はほぼ100パーセントで、水知の外出に傘は欠かせない。この能力を利用すれば砂漠を緑に変えられるんじゃないかとも水知は思うのだが、降れと思うと降らないのでおそらく無理だろう。つくづく不都合なことだ。

 水知が光原と話したのは今日が初めてだった。そもそも入学して二日目、言葉を交わした生徒のほうが少ない。初日の昨日は、同じ教室にいてでさえ、どこか牽制するような雰囲気に包まれていて、積極的に話しかけてくる生徒はいなかった。だから、どういうものであれ、気安く話ができるようになるきっかけというのは尊いものだと水知は思う。そしてこの場合、そのきっかけというのは、始業時間をとっくに過ぎ、乗客が他にまったくいないバスに乗り合わせたこと、である。寝坊は三文の得、だかなんだか。
 さておき。
 バスから降りても、高校まではまだ十分近く歩く必要がある。走れば五分もかからないのだろうが、二人とも少しでも早く行こう、という考えはまったく持っていなかった。そんな考えが浮かぶくらいなら、そもそも入学二日目に遅刻したりはしない。
 いずれにせよ、傘回しのネタが尽きた時点でも、まだ三分の一ほど行程が残っていた。水知の隣では、光原が感心したように拍手を続けている。
「や、すごいなぁ雨男」
「一年三六五日、ずっと傘持ち歩いてれば自然にできるようになるもんだよ」
「んー、邪魔だからいや」
「そら残念」
 肩をすくめ、傘を持ちなおす。最後にやったのは、指先に傘をたたせるというシンプルなものだった。
「ねえ、もっと他にはないの?」
 光原嬢、傘回しがいたく気に入ったらしい。単なる暇つぶしで覚えたんだからそう種類はないのだけど、と水知は断ったのだが、光原は目を輝かせて完全に鑑賞モードにはいっている。やれやれ、と水知はひとつため息をついて、傘の握る部分に手をかけた。
・2(秋)
「ん、例えば」
「例えば?」
 ばさっと傘を開いて光原の頭上にさしてやる。怪訝な表情を見て、水知はにやりと一笑い。いや、当人としては爽やかな微笑のつもりだったのだけれど。
「例えば――突然の雨に困惑している女の子に、傘をさしてあげたりとか」
 光原、天を見上げると、雲の浮かぶ青空はいつしか青の浮かぶ曇り空に変わっている。ぽつぽつと泣き出す雨の声。今のところ、まだ傘は不要だけれど、おそらく学校に着くころには――。
「ああなるほど、雨男」
 大きく頷いて、光原はひとり納得した。

 ところが学校に着いてみると、二人とも濡れ鼠になっていた。なんのことはない、あっという間に土砂降りと化した雨と唸り轟く風の前に、水知の傘はあまりに小さく、まして二人で使えばますます小さく、傘たる役目を果たせなかったわけだ。
 水知はハンカチで額を拭った。光原を見やると、彼女は鞄についた水滴を払い落としている。ふと目が合った。
「ねえ、もっと他にはないの?」
 水知、眼を見張って、
「まだ、わたくしの芸をご所望で。――まあ、どうせやるつもりだったから良いけど」
 傘の柄を取り、回転をかけて地面を叩く。それは誰もがやることで、屋内に入るとき傘の水滴を落とそうというだけのことだ。しかし、水知は年季が違う。一度地面を叩いただけで、傘の水滴はあらかた落ちてしまった。玄関口に小さな水溜りができる。
「――それ、どうやってやるわけ?」
「傘にあわせた速度で回転を加え、しかるべき高さから地面に突き立てる。それだけ。コツをつかめば誰にでもできる」
「いや、普通できないって」
「まあ練習は必要だね。コツをつかむのに十五年、どんな傘でもこなせるようになるまで三十年かかった」
「って君は高校生でしょうに」
「精神と時の部屋」
「それはちょっと古い、って言うか今日日の小学生には通じないよ?」
「ゼネレエション・ギヤツプといふやつだね」
「――いつの人?」

・3(百)

 カツ、カツ、カツ……と靴音が響く。高校が上履きやスリッパを用意してない理由ははっきりしていて、老朽化した校舎を綺麗に保つ必要がないからだ。泥の足跡を残しながら、一組の男女が歩いていく。遅刻届を求めて、職員室へと向かっていく。入学二日目にしての遅刻、説教は免れない。――いや、ことによると呆れられるかも。さすがに愉快な気分はせず、二人の会話も途絶えがち。水知の手にはもちろん傘が握られている、傘立てすらないのだ。
 休み時間を知る者には信じられないほど、授業中の校舎内は静寂だ。それもまた、会話がはずまない理由の一つ。
 窓を見れば、薄い雲から太陽の光が染み出している。ところがその雲は、信じ難いほど強烈な雨を降らせている。向こう側に見える、南校舎がかすんでいるほどだ。この北校舎三階の職員室で遅刻届を受取ったあと、南校舎四階の教室まで行かねばならない。それもまた、憂鬱の原因。
 職員室の前へ来た。
「レディ・ファーストで」
「卑怯者」
 光原はちょっと笑って、職員室の扉を叩く。
「失礼しまぁす」
 彼女ごしに扉は開いた。前の背中に続いて、水知も室内に足を踏み入れる。
 薄暗い。
 そして、コーヒーの匂い。室内の様子は、扉を開けていきなり立ちはだかっていた壁のせいで、何も見えなかった。光原にもそうだったようで、しばらく彼女は無言で立ち止まってから、
「あれ。暗いね水っち」
 といまさら言った。水知は黙っていた。わずかに空気が流動する。
「……何これ?」
 光原は目の前の壁に疑問を持ったらしい。壁を覆っている布をひっぱったり、押してみたりしているようだ。さすがに水知は忠告してみた。
「なあ、上を見てみたら? たぶん正体がわかるんじゃないか」
「上? ……おわ! え? 何? 何あれ水っち何か見てるよこっち!」
 もちろん承知している。立ちはだかっていたのは壁にあらず、常識外の体躯を誇る巨漢だった。黒いズボンに黒い学ラン。あとはシルエットなのでよくわからないが、顔のあるあたりに二つ、炎玉めいた輝きがゆれている。
 後退る光原に押されるようにして、水知は廊下に出た。巨漢もぐっと腰をかがめて扉をくぐると、水知の前に仁王立ちする。はさまれた光原はしばらく去就に迷っていたようだが、やがて水知のすぐ横に移動した。
 日のあたるところに来ると、巨漢の様子も分かった。要するに、昭和の学生みたいな格好をしているのだ。足には高足の下駄を履いていて、このせいで身長がよけいに高くなっている。背には何か太いマキを背負っていた。
 男は水知の傘を一瞥すると、手でごつい顎をなでつつ、口を開いた。
「貴様、義の心を何に懸ける」
 水知は目を瞬かせた。見かけ以上に唐突な問いだ。とりあえず、普通に返答する。
「はい?」
「失ッッ格ッッ!」
 一呼吸の間も置かず、巨漢は叫んだ。その背から黒い何かがほとばしり出る。ほとんど反射的に、水知は光原を抱きかかえ、窓際に飛んだ。
 轟音、激震。
「ひゃわあ!」
 胸の下で、光原の声。何か超重量級のものが廊下を砕いたようで、砂っぽい灰煙が辺りをつつんでいる。水知は左腕を緩めて光原を解放すると、右手に握った傘をゆっくりとおろした。この傘はスイッチひとつで柄の部分から尖った先端が飛び出すようになっている。基本的には柄を長くするためのものだが、奇襲用の武器にもなる。ので、避けようとして思わず「打ち込んで」しまったが、手ごたえがなかったことからして相手に怪我はないだろう。
 予想通り、煙が収まった後には、やはり巨漢がたたずんでいた。右手に巨大な番傘を握っている。背負っていたのはこの番傘だったのだ。
「やるな。その傘の腕は認めてやる」
 学生服姿の巨漢はそう言い、あごをなでていた手で頬に触れた。わずかに裂けた傷口が、黒っぽい血を流している。
「いや、腕も何も、びっくりしてスイッチ押しちゃっただけなんだが」
「ふ……ははははは!」
 あきらかにわざとらしいタイミングで巨漢は哄笑すると、くるりとこちらに背を向けた。
「我が名はライデン! 雷電豪助!」
「いやおい、聞けって。ていうか、なんなんだあんたは」
「知れたこと。今年で16になる、貴様のクラスメイトよ!」
「んが」
 突っ込もうとして失敗し、水知は変な声を上げた。脇では光原も同じような表情をしている。
 雷電は大またで歩み去ろうとしていた。と、足を止め、振り返る。
「忘れていた。遅刻は重罪、厳罰を覚悟しておけと、担任殿の伝言じゃ。ではな」
「伝言ならもっと穏便にしてくれ……」
 粉々に飛び散ったタイルの上にたたずんで、水知はつぶやいた。
「厳罰って何なの、厳罰って……」
 やはり同じような表情で、光原もつぶやく。二人とも、職員室に入るつもりはもうなかった。

・4(り)

 同時刻、同学校の何処かにて。
「・・・そうですか、ご苦労様です」
「主(マスター)、遂に動き出しましたね」
断っておくが、ここは学校内である。朝にしてはやたらと暗いとか、怪しげな雰囲気がバリバリ醸し出されているのは、演出効果(冬用の厚めのカーテンによる陽光遮断)の成せる業である。
「雨宮水知・・・まさか、“あれ”の正等後継者がここに来るとはな」
「好都合ですね」
「いや」
主(マスター)と呼ばれた人物は、暫く押し黙っていたが、こう続けた。
「楽観視は出来ぬ」
「光原ハル・・・ですか」
「それも、ある。が――」
言うや否や、主(マスター(仮))は傍に立ててあったビニール傘を掴むと、壁に向かって投げ付けた。ドガッという鈍い音と共に、傘が壁に半分以上めり込む。
「――外したか」
驚き、立ち上がる幹部(仮)達。だが、主(マスター(仮))は彼等を手で制すると、
「追うまでもない」
「しかし・・・」
「今は、“雨衣(アマゴロモ)”に構っている暇など無い。彼奴等とはいずれ決着をつけねばなるまいが・・・」
間。
「・・・やらねばならぬことがある」
幹部(仮)達は頷くと、気配も無くそこから消えてみせた。各々、自分の役割を果たさなければ、全てが水泡と帰してしまう。彼等がここにいる理由、そして叶えなければならない夢。全てはそのために捧げたのだから。
「どう動くか、見ものだな」
無論、学校は勤勉の場であるので、よい子は真似してはならない。

 一方、水知とハルの二人はというと。
「雨宮水知さんと、光原ハルさんね」
また変なのと遭遇しているのであったりする。げんなりとしてお互いに顔を見合わせる。もう、誰?、と尋ねる気力はとうの昔に失われてしまっていた。
 いや、その格好が凄い。まず、そのスラリとした体。男性諸君ならば誰もが目を奪われ、女性ともあれば誰もが羨むような素晴らしい3サイズの持ち主である。出るところは出て、引っ込んでいるところはしっかりと引っ込んでいて、それでいて全体のバランスが取れている。髪は烏の濡れ羽色というか、闇のように黒く、それでいて艶があり、それをゆったりと腰の辺りまで伸ばしている。そしてさらに。性別年齢に関係なく、彼女を見た人は全て目をハートマークにしてしまうだろうという群を抜いた美貌。まさに神々しさのあまりに後光が射して来そうだと、彼女を一目でも見たことがある者は口を揃えてそう言うという。
 なのだが。
――何故に合羽なのだと。ブレザーでもセーラー服でもなく、河童と同じ音の、カッパなのだと。
 そう、彼女が着ているのはカッパだった。しかも、ビニール製の黒い安物だ。それどころか、フードを被っているため、さらにカッパが体のラインを消してしまっているため、顔は見えないは寸胴に見えるはで、せっかくの美貌も台無しというかドブに重しをつけて投げ捨てているようなものだった。もっとも、ぱっと見た限りでは、はっきりとその正体が分からないといえばその通りなのだが。にしてももったいない。
「・・・」
「・・・」
目の前の人物に対して何を言うべきか、それともこれは夢なのだと信じ込むよう努力すべきか、二人は迷っていた。本当にどうすべきか分からない。と、目の前の彼女は口を開いた。
「はじめまして」
鈴が転がるような可愛らしい声。無論、二人の耳には全くといっていいほど聞こえてはいなかったのだが。彼女は続ける。
「そして――」
 言うが早いか、彼女はカッパの合わせの間に手を滑り込ませると、笑ってつぶやいた。
「さよなら」

・5(黒2)

 空気の破裂するような音が、あたりに響いた。

「――とりあえず、教訓としては」
 右手の一振りで傘を収めながら、水知はため息混じりにつぶやく。
「通学が楽だからってだけの動機で高校を選ぶのは、間違いだってことかな」
 光原はまだ現実に着いて来られていないようだ。大きな目を白黒させながら、目の前の黒合羽と、水知の傘――それに、廊下に散らばった針のようなものに視線をやっている。
「楽すぎて油断して遅刻はするし――じゃなくて。なにかな、校風が致命的なものでないかって、よく考えたらとても重要だと思う。死活問題だ」
「…なかなかやるじゃないの」
 黒合羽の声には驚愕が混じっていた。
「針乱れ投げとどっちがすごいかっていったら、微妙だと思うけど」
 彼女が合羽の中から取り出したのは、裁縫に使うような針を一回りも二回りも大きくしたようなもの――それの束だった。一瞬後、一斉に投擲された無数の巨大針を、水知は傘を開く風圧で全て吹き飛ばした。
「み、水っち! 足!」
 我に返った光原が悲鳴を上げた。水知の制服のズボン、その脛あたりから、ありえないものが生えていた。鈍く光るそれは、水知の右足を貫いているように見える。
 水知は言う。
「…飾りさ。最初からついてたよ?」
「え、そうだっけ? 意外と斬新なデザインだね」
「ほら、私立だから」
「あー」
 朗らかに笑いあう二人。
「――違うでしょう!?」
 黒合羽が苛立った声を上げた。その右手には、再び針が握られている。
 光原の顔が強張る。
水知は煩わしそうに視線を向ける。
「現実逃避したい気持ちはわかるけれど、もう少し正確に今の状況を把握したらどうかしら? あなたの傘さばきが尋常じゃないのはわかったけれど、それでもその娘をかばいながらでわたしに敵うほどなのかしら? しかも、右足を負傷している」
 注意が自分に向いたのに満足したのか、嬉しそうに黒合羽は言った。
「状況――状況、か。遅刻の手続きに職員室に向かったところ、やたらでかい自称クラスメートに襲われたが彼は実は伝言係で、まあようやく開放されたと思ったら、今度は謎の合羽女に襲われました、と――」
 ごくごく冷静に状況らしきものを述べてみて、水知はなんだか泣きたくなった。あまりにも現実味がない。しかし残念ながら、右足が訴える痛みはどうつくろっても現実のそれだった。
「…一応言っておくけれど、奇術研究会に入りたいのなら実力を見せるべき相手は僕らではないよ。とりあえず冷静になって放課後まで待って、それで改めて部室を訪れるといい。まあ君のその技をもってしてならばまず間違いなく合格だろう。ただ、この高校に奇術研があるかどうかは知らないけれど」
「何を言ってるの? あなた馬鹿?」
「穏便に事態が収まるパターンがほかに思いつかなかったんだようるさいな」
 水知としても言ってみただけだったので、黒合羽の冷静なつっこみは不本意だった。
 色々と諦めて、水知はため息をついた。
「はぁ…まったく、ホントにこんなことが起こるなんてさ」
 小さくつぶやいた言葉は、黒合羽には届いていなかっただろう。だが、光原には聞こえていたらしい。小さく驚いたのが気配でわかる。
「水っち、わかってたの? もしかして日々暗殺者に狙われてるとか?」
「…まさか、違うって。僕は一介の高校生だし、誰がこんなこと想像できるのさ」
 自嘲気味に笑い――水知は、傘を構えた。
「あら、やる気みたいね。面白いじゃないの」
 そのセリフを言い終わるや否や、黒合羽は再び針を投擲してきた。
「遅いよ」
 再び響く破裂音――続いて金属の落下する音。
 今度こそすべての針を吹き飛ばして、水知はにやりと笑った。
「不意打ちでなきゃ、そんなの当たらないさ――」
「知ってるわ」
 声は、目の前から聞こえた――黒合羽は、一瞬で間合いを詰めてきていた。その右手に、細い板のような武器を持って。
「――っ!」
 先の投擲は単なる目くらましだと気づき、舌打ちする間もなく、閉じた傘を構えた。光原が小さく悲鳴を上げた。
 構えた傘に衝撃を感じ、水知の右足が激痛を訴える。それでも、受けきったと思った水知の左肩口が裂けた。
「うあ、なんだ…?」
 再び間合いを取った黒合羽が持っていたのは、針をいくつもつなぎ合わせたような武器だった。水知は頭の冷静なところで、マシンガンの弾があんな風な感じだったな、なんて思っていた。
「雨霧・戎。鞭のようにしなるこの武器から逃れるすべは無いわよ?」
 勝ち誇ったような声で、黒合羽が言う。
「くそ、次から次へと、びっくり攻撃ばっかり仕掛けてきやがって…。ホントに奇術研入ったらどうだよ?」
「あら、まだそんな生意気な口が利けるのね。まったく、礼儀ってものが無いわ。大体私、二年生よ先輩なのよ? ネクタイの色が違うでしょ?」
『見えねえよ!』
 水知と光原は、異口同音に叫んだ。
「はあ、まあ、いいわ」
 飽きた、といった感じで黒合羽が言う。
「そろそろ授業終わっちゃうし、終わらせることにするわ」
「あ、そういえば授業中だったっけ…」
「教室棟にすら行けてないんだけど、まだ」
 光原が思い出したようにつぶやき、水知が苦笑しながら言う。
「残念ねえ。あなたたち、教室にすら行くことは無いわよ」
 いやな感じに笑いながら、黒合羽は雨霧なんとかを構える。
「やれやれ。…光原さん、ちょっと下がっててな。ていうかまあ、逃げていいや。いい加減ホントに終わらせないとまずい。痛いし」
 唐突にそんなこと言われ、戸惑う光原をよそに、水知は再び傘を構えた。
「それじゃ、さよなら」
 先に動いたのは黒合羽だった。三メートルはあった間合いを一度の踏み込みで縮めると、雨霧を縦に振り下ろした。
 金属の激しくぶつかる音が、廊下一帯に響く。必殺の気合を持って放たれた一撃は、しかし水知の傘によってはじき返されていた。
「どれだけしなろうと、切っ先さえ受け止められれば怖くは無いってことだね。もう少し長いと厳しいけど」
 軽い声で水知は言う。
「もっとも、そりゃ切っ先のほうが斬撃は“重い”んだけどねー」
 一瞬驚いたかのように動きを止めた黒合羽だったが、すぐに二撃、三撃を放ってきた。
 二撃目を同じようにはじき返した水知は、横凪ぎの三撃目に対し、突くと同時に傘を広げた。一瞬視界が悪くなるのが欠点なのだが、確実に当たると思える状況ならば問題は無い。
 風圧を受け、よろめく黒合羽。すかさず、水知は傘を閉じて構えなおした
先ほど構えとは違い、右手に持った傘を地面にほぼ水平に構え、左手を傘に添えている。切っ先は黒合羽に狙いを定めており、明らかに突きを狙っている構えだった。
「“それじゃ、さよなら”」
 空を斬る音が駆け抜ける。回転を加えられた高速の突きはしかるべき位置に収まり、結果として黒合羽の体は吹き飛ばされた。
「雨宮流・散水――ま、弱めにしたし、死にはしないさ」
水知は言葉をかけたその先には、切り裂かれた“黒合羽”――そしてその中から、制服を着た女子生徒の姿がのぞいていた。しかも美人だ。その上、それでも威力が強すぎたのか、制服まで破れてはいた。
「………」
 思わず顔を赤くして見とれる水知の頭に、ばこんと衝撃。
「…保健室から、応急セットもらってきたんだけど。いらないみたい?」
 振り返ると光原が、なんだかすごい笑顔で水知を睨んでいた。
 そこで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「あー…、厳罰が――」
 思わずため息を突き、気が抜けたと同時に、水知の意識は急激に沈んでいった。

・6(秋琴)

 水知はぱちりとまぶたを開けた。目に飛び込んできたのは白い天井――ではなく、それよりやや手前にある巨大な顔だった。とっさに状況がつかめずに、目線を下げ、高ゲタを確認する。それから再び、そろそろと目を上げる。長大な距離を泳いだ目が、再び巨大な顔に止まる。
「うわっ、雷電豪介!」
 雷電は眉をひそめる。明らかに期限を害した様子だ。
「うぬ、人を呼びつけにするとは無礼な。怪我人でなくばただではすまぬところだぞ」
 怪我人、という言葉に水知の記憶がよみがえる。確か黒合羽の女との戦いで――。
 うっ、とうめいて、水知は頭を抱えた。世界がぐらぐらと揺れる。
「無理はせぬほうが良いぞ。脚の傷はともかく、頭に受けた鈍器の一撃は、常人であれば死に至るほどのもの」
「……そうか、光原の救急箱による一撃が響いたのか」
「ん、なんだそれは?」
「いや、こっちの話だ。それより、状況を確認していいか」
「うむ」
「ここは保健室――だよな。時刻は四時半、ってことはもう放課後。俺が気を失ったのは一限終了のころだから、かれこれ六時間以上寝てたわけか」
 雷電はいちいちうなずく。
「結局、今日は授業に出れなかったなァ」
「明日は一日中起立して授業を受けるのだな。その程度の罰は覚悟しておけ」
 ――俺の責任じゃない。水知は泣きたくなったが、この漢に涙なぞ通じるまい。
「で、なんであんたはここにいるんだ?」
「俺は保健委員だ」
「――なるほど。で、光原さんは」
「さっきから居るんだけど」と光原の声が聞こえた。水知はあたりを見回す――すると、雷電の影に小さな――光原はそれほど小柄ではなかったはずだが――非常に小さな少女の姿が見える。光原である。
「――光原さんはなんでここに」
「保健委員だからよ」と光原は答える。
「言い忘れていたが、貴様も保健委員だからな」と雷電が付け足す。
 はあ?
「貴様が学級会をさぼったので、人員不足の保健委員にまわされたのだ。異議は認めぬそうなので、そのつもりでいるように、とのことだ」
「異議なんか挟むつもりはないよ」
「物分りが良いな」
「人生諦念が肝心のようだしね」
「結構。では今日はもう帰っていいが、保健室教務殿が向こうにおられるので、挨拶をしておくように」

「やあ、水知君。二日目にして大暴れだったそうだね」
 保健室教務・紫電為右衛門の最初の言葉はこれだった。だが水知はまたしてもこの男の異相のために度肝を抜かれた。そもそも保健室教務というのは、優しいお爺さんでなければ、アウトローなおねーさんだと相場が決まっている。しかしこの紫電はどちらでもなかった。容貌からは年齢をはかることができない。わずかに薄くなった頭髪、額に刻まれた皺――少なくとも三十以上には間違いないが、四十か、五十か、はたまた六十、七十なのか、まったく検討がつきかねた。さらに異様なのは、雷電よりはわずかに劣るもののかなり長身と、それと同じくらい長い身体の横幅だった。この男と廊下ですれ違うことができるだろうか。
「こっちから喧嘩をふっかけたわけじゃないです」と、水知はやっとそれだけ言った。
 紫電為右衛門は破顔一笑した(不気味で滑稽な笑顔)。
「ここは一見、エリート進学校――だが風紀は外見ほどヤワではないぞ。気をつけなさい。さもなければ、君も、早くも見つけた君のガールフレンドも、五体無事で卒業できんかもしれんでな」
 冗談などではないことを、水知は知っていた。

 雨はやみ空は晴れ、闇の中に半輪の月が浮かぶ。だが高校のいくつかの部屋には、なお明かりがともっている。――保健室もまた、その一つ。
 不気味な夜の保健室。座っているのは雷電豪介と紫電為右衛門、立っているのは人体模型があるばかり。
 重苦しい沈黙。それに耐え切れず、二人は同時に口火を切った。
「叔父上」
「甥よ」
 それから、また沈黙。やがて為上衛門が口を開く。
「甥よ。……いよいよ……拮抗が崩れるときだ」
「承知しております」
「敵は早くも第六衣・雲原を繰り出してきている。さすがに水知君にはかなわなかったようだが」紫電は咳払いを一つして、続ける。「第三衣・秋水、あるいは裏雨衣の相手となれば、今の水知君には荷が重い」
「幸い、第一衣は南米、第二衣は中国へ修行に出ており、向こうの戦力は手薄な状態です。こちらも震電加奈子が不在とはいえ、俺と閃電三十郎とで雨衣を抑え、後継者・水知の身を守ることはできます」
「そうか――そうだな、大丈夫だろう。震電加奈子が帰還し、四電家の当主が揃った後、攻勢に出る。おそらくは国際傘道連盟の力を借りることとなろう」
「その日には、俺も雨衣討滅のため、全力で傘をふるいましょう」
 月が傾いていく。豪介はさすがにこの場を離れ、家へ帰っていく。時刻は夜十時、良い子は補導される時間帯だ。為右衛門はしばし黙考していたが、やがて彼も帰り支度を始めた。
 保健室が空になり、蛍光灯が消える。やがてその漆黒の闇の中で、人のつぶやく声が聞こえた。
「雷電君も気の毒に。傘連中の目的が、我々雨衣打倒にあるなどと思い込まされているとはね。所詮、マスターも我々と同じ穴のムジナだというのに。紫電先生も相当な食わせ物だな」
 人体模型がかたかたと動く。心霊現象――ではない。中に人が入っていたのだ。背は低く痩せ型、顔立ちは驚くほど端正だが、その顔が背丈に比べ大きすぎるため、女性ファンは少ない(およそ3.5頭身であろう)。これぞ雨衣第四衣・蜃楼。その名の通り変幻自在の術を使う、忍の末裔だ。
「しかし任務は任務だ。消えてもらうよ――紫電先生。そして雨宮君、次は僕が相手だ、楽しみにしていたまえ」
 顔だけ見れば、どんな女性も悩殺されてしまうようなスマイルを浮かべ、蜃楼は闇の中で一人笑っていた。


 第三話追加。
 どこから誰なのかわかりませんね。

 学校から異世界へ、ではなく、
 学校”が”異世界でした。

第五話・はみ出しおまけ。
「…ところで、光原さんは何でこの高校に?」
「え? 制服がかわいかったからよ」
「………」

 キャラ増やしすぎ。
 「雨衣」には「黒合羽十二衣」という十二人の幹部がいて、先ほど水知を襲った美少女・雲原はその六番目という設定です。

最終更新:2014年03月18日 16:37