雪の女王、帰りは怖い(前半)

2013年02月10日(日) 22:50-K

 

その日はなにしろ暑かった。太陽の光は、黄金色の液体かと見紛うほど濃縮されて哀れな地上の者どもの上に降り注いではたちまち異臭を放ち、脇の下にブラックホールのような黒い汗染みを作った勤め人達は、どろどろに溶けたアスファルトに膝まで沈みながら、不慣れな田植え作業に苦労しているかのように一歩一歩必死の行軍を続けていた。ようやく目的地について冷房の効いた室内に入れると思って、「ここを押して」と書かれた半自動ドアに手を伸ばした瞬間、あまりの暑さに陽炎が立ち上って蜃気楼のように見えていたビルが、本当に蜃気楼だったと気付いたとき、哀れな企業戦士たちは、絶望のあまり、いつでも自殺ができるようにと首に巻いていたネクタイを使って、自然発火した街路樹で首を吊る。通りは燃え盛る木々にたわわに実るそんな奇妙な果実で一杯だ。どんなに時間が経っても、それらは腐りもせず、軒先にぶら下がった柿のようにただ干からびていくのみ。耳を澄ませても、あの日本の夏を音で彩る風物詩である蝉の鳴き声も聞こえない。青い夏空に飛び立つ日を夢見て何年間も土の中で待ち続けた彼らは、ようやく地上に出て古い殻を破って新しい翼を広げた瞬間に干からびて、今さっき脱ぎ捨てた抜け殻と見分けがつかなくなってしまうのだ。
進化を裏で操る宇宙と融合した無機生命体が地球と太陽の間に巨大なレンズを作ったのではないかと思うようなそんなある日、圏と環は部屋でぐだっていた。ゆだっていたと言ってもいい。煮立ってすらいたかもしれない。圏の下宿には空調などと言う文明的なものは存在せず、ついさっきまでは二人にも団扇を使って熱風を顔に吹きつける不毛な行為を続ける気力があったものの、喉が渇いたのに酒しかなくて、酒を飲んで小便をするという脱水症状まっしぐらコースをひた走った結果、今の二人には顔の両側に満遍なく畳の跡を付けるために寝返りを打つ体力すら残されていない。
(ああ、俺はこのまま起きあがれず、床ずれして畳に肌を削られていき、最後には骨だけになって死ぬんだ)
圏は死力を尽くして瞼を細く開けて、この世界との最後の別れをしようとする。見えるのは、すでに死んでいるのか、ピクリとも動かない環の尻だけだ。格好よくなると思って安物のジーンズを一生懸命色落ちさせた結果、股のところだけ濡れているように見える。
(糞、こんなのが生きて最後に見る光景だなんて。糞ったれめ)
そう心の中で毒づいた瞬間、目の前で
ぷりっ
と音がした。
「てめえ、屁こきやがったな!」
圏はベリっと音をさせて起きあがって、環を蹴飛ばそうとする。
「そこに寝てるおめえが悪いだろ!」
環もベリべりっと畳から顔を引きはがし、その蹴りを避ける。二人とも、頬に何か悪い皮膚病みたいな見事な模様が出来ている。
「ファミレスいこっか。冷房聞いてるし」
下らないことで立ちあがってしまった圏は、すぐにテンションが下がり、かといって今さら座るのも面倒くさくなって、そう切り出す。
「でもあそこ、店長に二度と来るなって言われたじゃん?」
「そういやそうだったな。お前がドリンクバーでホムンクルスなんか作るから」
「俺はただ、ホットカルピス作ろうとしただけなのに……」
「くそお、ファミレスは駄目かあ。じゃあ、図書館に行くかあ」
「冷房効いてる?」
「あたぼうよ! 効きまくりよ!」
「レインボー!」
なんだかよく分からない叫びを上げて環が立ち上がる。
「俺が冷房一番乗りい!」
頬の畳跡をぼりぼり掻きながら、玄関に走り出す。
「おい待て、一番乗りは俺だぞ」
圏もその後を急いで追う。どちらにしろお前らは一番乗りじゃないと思う。
「くそ、邪魔をするな! この玄関一人用なんだからな!」
「お前こそ邪魔だ。だいたいこの玄関は俺のだ!」
二人同時にドアを通ろうとして一瞬詰まったのちはじかれるように飛び出す。そして奇声を上げて互いに相手を腕で押しのけながら、先を争って図書館に向けて下宿から走り出す。鍵掛けた?
その五分後。
「二度と来ないでください!」
「お前のせいでまた追い出されたじゃねえか!」
「俺のせいじゃねえよ!」
「せっかくの冷房だったのに!」
「まだ汗も乾いてねえよ!」
「お前があんなもの召喚するからじゃねえか!」
「だ、だって! 変な絵描いてある本あったから、線なぞって書いてあること読んだらあんなこと起こるんだぜ。誰が予想できるってんだよ!」
「本の題名読んだら予想できるだろ!」
「出来ねえよ! 予想できねえよ!」
「ああ、もうよそう。ただでさえ暑くてどうにかなりそうなのに、こんなところで声張り上げてたら二倍どうにかなりそうだ」
実際、近くにいても相手の顔がゆらゆらとかすむくらい暑い。まるでグリルの中だ。少し同じ場所に立っていると、靴の裏が溶けて、地面に張り付いて動けなくなってしまう。そうなったら、流れ出た汗が全て蒸発して塩の柱になるまでそのままだ。
「ヤバい! このままじゃ俺たち死ぬ! もしかしたらもう死んでるのかも!」
不安のあまり環が発狂寸前だ。
「俺を殴ってくれ! そうしたら俺が蜃気楼じゃないかどうか分かるから!」
「もし殴れなくても、お前が蜃気楼なのか、俺が蜃気楼なのか、二人とも蜃気楼なのか分からねえぞ。あと死んでも人は蜃気楼にならないと思うが」
「細けえことはいいんだよ! 今俺たちに必要なのは、痛みのように激烈な生きているという証拠であぐほあっ!」
圏の右フックが演説途中の環の顎にヒットする。
「大丈夫か?」
あまり心配でなさそうに圏が訊く。
「ああ、効いたよ」
ピクピクと地面に横たわりながら、環は小声でつぶやく。
「おかげで思い出したぜ」
「俺たちが暑さで今にも死にそうだってことをか?」
「違う! 俺たちの旅の終着地! 約束の地をだよ!」
ぴょこんと立ちあがると、その頬には赤熱したアスファルトの跡がワッフルメーカーに挟まれたみたいに痛々しく焼きつけられていた。

と言うわけで二人は、途中で出会ったキャラバンの駱駝の影を借りながら目的地についた。
「って、ここファミレスじゃん」
「そうだよ」
「ここには入れねえって、言ってたじゃねえか!」
圏がそう喚こうとするのを環は、
「チッチッチッチ」
と指を振って止める。
「なんだ? メトロノームの真似か? それくらい誰にだってできるぞ」
「いい加減下らない茶々は止めろ! そうじゃなくてだな。俺がお前をここに連れてきた理由はこっちだよ」
と、圏を建物の裏、駐車場からさらに入ったところに連れていく。そこには、従業員用の裏口がある。
「音立てるなよ」
環は少しドアを開けて中を覗くと、圏を指で呼ぶ。
「12の3で走るからな。へまするなよ」
「おい、説明が全然足りてね」
「GO!]
全然12の3じゃない掛け声を出して環が走り出す。仕方なく圏もその後を追う。従業員に見つからないように頭を低くして、調理場を駆け抜けると、目の前に大きな金属製のドア。ごついレバーを押して、急いでその中に入る。
そこは天国だった。
「冷蔵倉庫か?」
目の前にはところ狭しと生肉や魚が積み上げられ、その間を薄い霧が流れて、奥の方はかすんでよく見えない。2人の吐く息も白い。つい先ほどまでのサウナとは雲泥の差だ。
「そうなんだよ! 俺実は以前ここでバイトしててさ。場所覚えてたんだよ!」
「マジで? ここでバイトしてたんなら言えよ! からかいに来たのに」
「2日で首になったからな」
「そっか」
何も言えなくなる圏。
それはともかく、Tシャツや髪をベタベタにし、肌の表面に薄く膜を作っていた汗が急速に引いていく。開ききった毛細血管がキュッと締まる心地よい感じがする。
「しかし、今回ばかりはお前に感心したよ。あのまま外にいたら、天然のミイラになって古代エジプト展に展示されるところだった。今俺が古代エジプト展に展示されてないのも、お前のおかげだから、お前は俺の命の恩人てことになるな」
「よせやい! ほんとのこと言われるとてれるじゃねえか!」
頬を赤く染めて後頭部を掻く環の気持ち悪い姿から目を逸らして、圏は半そでから出た腕を軽く擦りはじめる。
「しかし、少し寒すぎるな。いつまでもここにいるわけにはいかないよな」
と言いながら、ドアに近づこうとする。すると、ドアの向こうから、
「それなら倉庫にあったと思うっすよ」
と足音と話し声が近づいてくる。従業員が冷蔵倉庫に入ってこようとしているのだ。圏はどうしていいか分からなくなって立ちつくしてしまったが、環の行動は早かった。
「急げ! 運べ!」
とそこら中の食材の入った箱を持ちあげて、ドアの前に積み重ねていく。
「おい、なにを?」
「見つかったらやべえだろ! ドアを開かなくするに決まってんじゃねえか!」
圏にはそれが正しい解決にはとても思えなかったが、ガチガチとレバーが動かされ、ドアの向こうで
「あれ? 開かないぞ?」
と言う声がすると、居ても立ってもいられなくなって結局環の手伝いをし始めてしまう。自主性のなさが表れていると言えよう。
しかし、
「おかしいなあ。うりゃ! うおりゃ!」
とドアの向こうで体当たりをしている感触。せっかく積み上げた生バリケードがガタガタと崩れていく。
「やべえ! 支えきれねえ、無理だ! 隠れるぞ!」
「ええっ!? 隠れるってどこへ?」
それなら最初からそうすればよかったじゃんかと、圏が振り向いた時には、環はもう走り出している。
「奥だよ! この倉庫、見た目よりかなり大きいんだ!」
圏は一瞬躊躇する。積み上げられ床にばら撒かれた生ものを少しは片づけないと、侵入者があったとバレてしまうんではなかろうか。床に転がっているチキンの手羽先を拾おうとする。その時、
「あ、開きそうです」
後ろから声が聞こえ、一目散に環の後を追う圏なのであった。自主性のなさが(以下略)

「お、お、お前。誰かが入ってくるかもしれないって考えなかったのか」
奥へ行けばいくほど気温が下がるようで、圏は自分の肩を抱きしめてがたがた震えながら、自分の前を歩く後頭部にそう毒づいた。
「うるせえ! 俺2日しかここで働いてねえし、最初にここ入ったときドア壊しちまって閉じこめられたあとは、二度とここに入らせて貰えなかったから、良く分からなかったんだ」
「そりゃ正しい判断だな。お前に何も触らせないってのは」
ぶるぶるっと圏は身を揺する。さらに温度が低くなり、今では完全に冷凍庫、いやそれ以下だ。
「しかし、どこまでこの倉庫続いてるんだ。もうずっと歩いてる気がする。一体俺たちどれくらい歩いたんだ?」
通路は複雑に絡み合い、まるで迷路。その道を、あてずっぽうに歩き回る環。その後について回る圏。
「さあ、道も真っすぐじゃねえしなあ。数分じゃね?」
「いや、数時間歩いてるような気がする」
カチカチと圏の歯が鳴る。周りを見ると、全ての棚や段ボール箱に霜がうっすらと被さっている。それだけでなく、白鬚のように顔にも霜が付きはじめ、鼻の下からは鼻水のつららが伸びだしている。
「やっぱお前の言うことなんか聞くんじゃなかった」
圏の声から次第に抑揚を失われていく。倉庫の奥からは雪交じりの風がごうごうと吹きだし、二人は前屈みになりながら一歩一歩踏みしめて前へ進まないと、吹きとばされてしまいそうだ。目を開けていることすら辛い。過冷却状態の濃霧が纏いつき、体の後ろに海老の尾のような霧氷の塊りが伸びていく。ときどきそれが砕けると、金剛石の粒のようにキラキラと輝きながら、雪の妖精みたいに風に舞う。
「これじゃ、雪だるまになっちまう。塩の柱とどっこいどっこいだ」
圏は誰に言うともなくぶつぶつと何かを呟き続けている。
「良く考えたら、お前の言うこと聞いて何かが良くなったことなんかなかったんだ。そもそも、世の中ってのは何かが良くなるなんてことはないんだ。熱力学第一法則と第二法則がそれを教えてくれる。第一、なにも無からは生まれない。第二、全てはありふれててつまらないものになっていく。俺たちが世界とか今とか呼んでるのは、未来に存在する全ての輝かしいものを飲み込んで、過去と言う名のそびえ立つ糞の山にしていく、でっかいでっかい消化器官のことだ」
不気味な詠唱をずっと後ろから聞かされて、さすがの環もイライラしはじめた。
「うるせえよ! 文句があるんだったら、あの炎天下の中突っ立って、お前もジュッ音立てて蒸発しちまえばよかったじゃねえか。さっきお前言ってたろ、俺が命の恩人だって。だったらもう少しくらい俺の言うこと聞いてくれたって……おい、圏? 圏!」
環が振り返ってみると、圏は顔を真っ青にし、ふらふらと千鳥足を踏んでいる。顔は前方を向いていることは向いているが、焦点の定まらないその目は恐らく何も見ていない。
「大丈夫かお前?」
「大丈夫なわけないだろ。俺は帰る。帰るよ。どんなに暑くったって、ここよりはましだ。ここで凍死するくらいなら、外で自然発火した方が、20%増しでマシだ。だから帰るよ」
喋っているというより、半ば開いた唇から声が漏れだしているという風にそう言うと、圏はまわれ右して来た方に歩こうとする。が、回った勢いで横の壁にぶつかりふらついて、尻もちをついてしまう。
「あ、くそ。なんで?」
無感動な声で圏が自分に毒づく。体に力が入らず立てないでいるようだ。その姿は環から見ても、明らかにおかしい。
よく見ればいつの間にか体の震えが止まっている。これは危険な兆候だ。低体温症が進行すると、意識レベルが低下し、何もかもに無関心になり、体温調節機構の一種である体の震えも止まってしまうのだ。
「大丈夫か? お前変だぞ?」
環が掛け寄って、体を支えようとする。
「環、お前こそなんで平気なんだ? お前、寒くねえのか?」
「そりゃ寒いけどむぐむぐ」
「お前……何食べてんの?」
「これ? チョコだよ、板チョコ。ドアに通せんぼしたときの箱の中に入ってたんだ。凍ってなかったから5~6個持ってきたんだよ。ほら、雪山で体力つけるならチョコだってゆうじゃん?」
と、口の周りをチョコレートでベタベタにしながら、板の残りを口の中に放り込んでもぐもぐ噛む。
「そうだ! お前にも一個やるよ……あれ? 全部食べちまったかな?」
ポケットを裏返しにして、糸くずやおはじきや砂などを落としながら、そう気まずそうに笑う。板チョコレート5枚も食べて気持ち悪くならにのだろうか、という疑問は置いといて、意識朦朧の圏の目からは、口の周りの茶色い汚れが、邪悪な道化師の化粧のように見えたのだった。
「あーーーーーーーっ!!」
圏が突然叫びだす。
「死にたくなあい! 俺はまだ死にたくなあい! まだまだやりたいことがたくさんあるんだ! 彼女作ったりとか、彼女とやったりとか、プロじゃない女とやることやったりとかしないうちに死ぬのはいやだあ!」
「おい圏、落ち付け! 言わなくてもいいことまで言ってるぞ!」
これは低体温症が重度化したときに起こる錯乱状態である。雪山で遭難して生き残った者なども、他の登山者が奇声を上げ続けていたのを見たと証言をしていたりする。こうなると、もうかなり危ない状況である。
「いやだあ! いやだあ!」
「おい! 大丈夫だって! 俺が付いてるって!」
「余計終わりだあ!」
落ち付かせようとする環。それでも、叫びつづけようとする圏。その時、その目が何かを捕え、驚きに見開かれる。
「おい、環……あの、綺麗な女の人は誰だ?」
これも、重度の低体温症の症状の一種である幻覚に他ならない。
「あ、あんた誰?」
環も目を丸くする。えっ、幻覚じゃないの!?
2人の目の前に立っているのは、周囲に何匹もの大きな狼を引き連れた丈高い女性だった。頭の上に、それ自体が四角い宮殿のように見える不思議な冠をかぶり、シンプルな真っ白いドレスの長い裾を引きずってこちらに近づいてくる。
白いのはドレスだけではない、その肌もその髪も、唇さえ白かった。切れ長の目の中からこちらを射抜いてくる瞳だけが、吸い込まれそうな黒だった。
死のような静寂を纏うその姿は、夜のように美しく、打ち捨てられた遺跡のように謎めいていた。
その女は歩いてくると、床に倒れて必死に半身を起そうとしている圏の目の前に身を屈めて、その顔を覗き込んだ。
「旅人よ、難渋しているようですね」
その後を狼達が大人しく付き従う。環はその迫力に気圧されて、思わず後ずさる。
「私の家に来ますか? 宿と食事を提供しますよ」
圏はその目の奥に横たわる深淵を見つめてしまう。そして、全ての光を捕え逃がさない漆黒の深淵に見つめ返されて、その瞳から輝きが消える。
こくっ、と無言でうなずくと圏は、今まで体を起こすこともできなかったとは思えない滑らかな動作で立ちあがり、女の手をとって共に歩きだす。
「おいおい! どこ行くんだよ! 俺も連れてけよ!」
環はその後を追おうとする。しかし、狼の群れが歯を身きだして唸りながら、その行く手を阻む。
「おい圏! 聞こえねえのか、圏!」
しかし、圏にはその声はもう聞こえない。例え耳に入っていたとしても、その魂にまでは届かない。なぜなら彼の魂は、すでに雪の女王の生み出す、溶けない氷のなかに囚われてしまっているからだ。

「どうだ? 見違えたであろう、自分の姿を」
そこは永遠の夜と絶え間ない吹雪に閉ざされた、苔すら生えない永久凍土の氷原の真ん中に立つ、雪の女王の氷の宮殿の広間だ。その部屋の大鏡の前に、雪の女王と圏は立っている。圏の着ているのは、先ほどまでのTシャツとチノパンではなく、真っ白な礼服を着ている。まるで軍服のように、肩から房飾りが垂れ、胸元には巨大な雪の結晶のような勲章がぶら下がり、しゃらしゃらと音を立てている。
それを着ると、それまでのだらしない格好とは月とすっぽん、立ち居振る舞いもどこか優雅に見える。圏自信もその姿にまんざらでもなさそうに、自分の姿を様々な角度から鏡に映して眺めている。自分の仕立てに雪の女王も誇らしげだ。
「いつまでもここにいてもいいのだぞ。さすればそなたにも永遠の若さをやろう」
大鏡の上には、凍りついた時間を表すかのように零時で静止した時計が飾られている。
雪の女王は背筋を凍らせる妖艶な目つきで圏の顔を眺め、触れたものの体温と命を吸いとる指でその頬を愛おしそうに撫でる。
「そうすれば自由以外なんでも、欲しいものは全てあげるわ」
しかし二人には目に入らないのであろうか。2人がその姿を映している氷の鏡には3つ目の像が写っていることに。
それは鏡の中から必死に鏡面を裏側から叩いている圏の姿だった。口を大きく開けて何かを叫んでいるが、その声は反対側には聞こえていない。
すっかり男振りの上がった自分の姿にご満悦な圏は、雪の女王の前に跪くと、フリーズドライされた不気味な笑みと瞬間氷結する冷酷な視線で感謝の意を示す。
「何もかも、我が女王の仰せのままに」
その顔は死人のように青白い。
「貴方様に支配していただけるなら、自由など何になるでしょうか」
彼女にとって喜びを表す悪寒が背筋を走り抜けるのを感じた雪の女王は、口角を釣り上げて酷薄な頬笑みを形作り、相手の好意に応えるためその蝋のように白い手を彼に差し出す。
圏がその冷たい手の甲に、血の気が失せて紫色になった唇を重ねようとした、その瞬間、
「うおおおおおおおおおおおお!!」
叫び声とともに、鷹にぶら下がった環が薄い氷の窓を破って飛び込んでくる。
「圏! 助けにきたぞうわあ! 滑る! 滑る! とまらないいいいい!」
そして鷹から飛び降りた途端に、氷の床に滑って顔面から叩きつけられ、足をジタバタさせながら、鼻血だらけの顔から二人のところへ、結構な速度で突っ込んでくる。
「きゃああっ!」
そのあまりに不細工で醜怪な御面相に、雪の女王も黄色い悲鳴を上げて飛び退る。
環はそのまま、ウインタースポーツのスケルトンと同じ姿勢、ただし自分の体を橇にして、顔面からノーガードで氷の鏡に突っ込んだ。
バリーーーーン
盛大な音がして、鏡が砕け散る。そして、
がちゃんがちゃんがちゃん
次から次へと破片が環の上に落ちてくる。その殺人的な雨の中を、半透明の圏の姿がすり抜けていき、無関心に事の成行きを見守っていた自分の姿に重なる。
「あれ、俺なにしてたんだっけ?」
圏の瞳に光が戻り、夢から覚めたように周りをきょろきょろ見回す。着せられていた豪奢な服装は一瞬で砕けて、きらきらと輝く細かい塵になって、空気の中に溶けていく。顔にもすぐに血の気が戻ってきた。
「なんてこと! あまりに無様で惨めな登場に気をとられて、みすみす封印を破られてしまうとは! しかし貴様、狼共に守られたこの城に、どうやって潜り込んだ?」
頭から血を流しながら、残骸の中から這い出してきた環を上から見下ろしながら、高飛車に尋ねる。
「ふっ。可愛い森の動物たちに協力してもらったのさ」
「なに?」
雪の女王が窓から外を見ると、そこでは、鹿や兎やコアラなど、可愛い森の動物たちが一致協力し、知恵と勇気を結集して狼たちに立ち向かっている。
「お前が世界をずっと冬にしちまったんで、みんな困ってるんだ! だから、俺がお前を倒すのに協力してくれてるのさ」
「なんと! たったの数分で、可愛い森の動物たちを仲間に引き入れたと言うのか?」
環は相変わらずぼうっとしている圏に掛け寄って話しかける。
「圏! 大丈夫か?」
「環、お前ここでなにしてんの? ていうか、血出てるぞ」
「圏。お前はこの女に術を掛けられて、心を奪われてたんだ。これを見ろ!」
環は壁に走り寄ると、表面の曇りを手で擦ってとる。すると氷の壁の中に閉じ込められた何人もの男達の姿が露わになる。
「これがこの女に取りつかれた男のなれの果てだ」
「だって! だって!」
雪の女王が地団太を踏んで怒りだした。
「私を抱くと、どんな男もあそこがしもやけになって使い物にならなくなるんだもの!」
これがほんとの〈しもやけ〉である。
「そうか、お前は独り身で人肌恋しいというだけの理由で、何人もの可哀そうな男をとり殺してきたんだな。そんな女はこの俺が退治してやる。あちょおおおおおおおお!」
環が奇声を上げながら、インチキカマキリ拳法の構えで雪の女王に襲いかかる。しかし、リーチが違いすぎて、雪の女王の前蹴りを土手っ腹にまともにくらい、自分の勢いで弾き返されてしまう。
「ぐほおっ」
その時、スラリとした女王の美しいおみ足が長いドレスのめくれ上がった裾から伸びて、ハイヒールの踵を環の鳩尾にめり込ませるのを圏は見逃さなかった。その細く締まった足首から、むっちりとほど良い肉置きの脹脛、そして完璧な機能美を窺わせる膕まで、一瞬で瞼の裏に刻みつけたのだった。
「おい環」
圏は腹を抑えて苦しむ環に掛け寄る。
「大丈夫だ、圏。お、俺は不死身だ」
とまるで少年マンガの主人公のようによろよろと立ちあがろうする環。しかし、圏はそれを助けようともせず、真面目な顔でこう宣言するのだった。
「俺、ここに残るよ」
「はあっ!? なんで?」
反射的に聞き返す環。
「言ってなかったかもしれないが、俺、脚の綺麗な女性を見ると、結婚したくなるんだ」
どこまでも澄み渡った青空のような爽やかな顔でそう言い切る。
「正気か?」
「ああ、もちろん本気だ」
膝が笑って立つこともままならない環を後ろに残して、圏は雪の女王に歩み寄る。
「な、なに?」
その妙な迫力に思わず声が裏返りそうになる雪の女王。しかし圏は彼女に逃げる暇を与えず、その白く細い手首を掴む。そして先ほどの続きと、跪いて手の甲に唇を押し当てる。
「女王、あなたの間違いは妖術で私の心を奪おうとしたことです。そんなことをしても全くの無駄でした」
そして、跪いたまま顔を上げて、見上げるように熱い視線を送る。
「なぜなら、私の心は生まれた時から、運命の定めによって、あなたの物だからです」
「おい圏」
たまらず環が半畳を入れようとする。
「お前、たかが脚のために人生を棒に振る気か?」
圏は鬱陶しそうにそれに答える。
「脚のためじゃない。俺はこの女性が好きなんだ」
「好きなのは脚だろ」
「違う。確かに脚は好きだが、脚を好きになれば、その人の心も性格も人生も全て好きになれるんだ!」
「やっぱり脚じゃねえか!」
圏は付き合ってられないと議論を切り上げると立ちあがって、なにが起こっているのか分かっていない風の雪の女王の目を正面から覗きこむ。
「あなたが雪の女王だろうが、私には関係ない。あなたの世界がどんなに氷に覆われていようがそれも関係ない。あなたのその心の氷、私が溶かしてみせます」
そう決意表明して彼女の細い体を力一杯抱きしめた。
パリン、という音が彼女の胸の奥から聞こえた。それは、心の臓に刺さっていた氷の破片が砕ける音だった。
黒体放射すらせぬ彼女の瞳が潤み、涙があふれた。それは春の訪れを知らせる雪解け水だった。
氷原を覆っていた吹雪が止んだ。世界の果ての霧と霜の国に住む霧氷の巨人が、凍てつく息を吐き出すのを止めたからだ。
世界に光と昼が戻った。この世の終わりをもたらす悪評高き狼が、飲み込んでいた太陽を吐きだしたからである。
全ての物の表面を薄く覆い尽くし、大地の呼吸を止めようとしていた氷が解け、草木が見る見る天を目指し、暖かい生命の源に手を届かせようと競って伸びはじめる。完全な直線と一定の角度によって複雑かつ正確に構成されていた様々な雪の結晶の白い花に変わり、無際限に繁茂する蔦や茎の先に咲き溢れるのは無節操なほどの色使いで飾られたゆっくりと炸裂する命だ。死を待つのみだった動物たちが、自分たちもそこから目覚めるとは思っていなかった長い眠りから目覚める。そして、敵味方関係なく、風の冬、剣の冬、狼の冬の後にようやく訪れた命の春を祝って踊りまわる。
青白い静止した光を発していた氷の城が揺れる。表面に映した鏡像すら凍りつかせる氷の壁に罅が入る。量子揺らぎさえも凍てつかせる絶対零度の寒さに息の根を止められていた水晶振動子に鼓動が戻り、時計が動き始める。凝固した時間が動き始める。
轟音を立てて城が崩れはじめる。いくつもの巨大な氷の塊が天上から落ちてくる。女王配下の狼たちは、散り散りになって逃げていく。しかし二人は誕生したばかりの愛を確かめ合うように抱きあったまま動かない。
「おい圏! おい! うわあああああっ!」
環は崩れる床に巻き込まれ、氷の瓦礫の中に消えていく。
こうして悪は滅び、今日も愛が世界は救ったのである。

(続きは、掲示板の謎規定により投稿できないので、すみませんが、上のurlから私のブログに行って読んでください)

 

編集注:url: けんさく。「http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/」

最終更新:2014年03月17日 19:27