備忘録

2013年05月20日(月) 21:57-エンディミオン

私は以前、自身の内面世界の現状を「臆病」と記述した事がある。行為やその結果に伴う痛みを引き受けたくない、つまり臆病であるからこそ、責任などという概念を持ち出し、それを自覚的に回避する自分は正当だと叫んだのではないかと疑ったのである。しかし今となってはこう叫び換える事によって説明するのが適切だろう。臆病だから責任を問うのではない。責任を問うてきたからこそ、私は臆病になったのだ。

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責任とは何か。私にとって最大の問いは、ここ一、二年常にその周辺にある。しかしそれ以前には全く別の問いがあったかと言うとそうではなく、責任に関する問いがその輪郭を現すまでに時間がかかったという方が適切だろう。つまり責任というモノへの数々の問いは、潜在的にしろ自覚的にしろ、物心ついた頃から私の中にずっと存在していたのである。火曜の夜、弱者を救うために奔走していた弁護士を見つめる瞳の中に、責任を巡る問いは何気なく生まれていた。
しかし、問いに対する動機は、問いの存在の確かさとは対照的に、大きく揺らいできたのである。幼い私にとって、責任への問いは、純粋に正義への問いと同義であった。私に反対する友人達は、私からすれば明らかに誤っている主張を、なぜそう易々と為せるのか。私の中には確かな正義の姿が浮かんでいるのだから、それを実現すれば良いではないか。ところが実際には、彼等は私の正義の言葉に耳を貸そうとはしなかった。私は己の小ささを、力の無さを痛感せざるを得なかった、そして思ったのである。私には力としての責任が必要だ。まさに弁護士のように、彼等を説得し、率いていけるだけの強大な責任の力を、その時私は欲したのだった。
その様な幼く懐かしい責任像は、もはや私の中には思い出せる程度しか残っていない。現在、責任に対して私が有している問いの動機を辿っていくと、(それを文脈通りネガティブに取るにしろ、後に見るようにポジティブに取るにしろ)主にそれを引き受けたくない、なるべく遠ざけておきたいというところに行き着く。かつて夢見た火曜の正義の人を、十代半ばにして追いかけなくなった事も、あるいはその経過であったのかもしれない。
敗北した、というのが唯一の原因である。正義に邁進し、責任を追いかける最中、突如として思うのだ。なぜ私だけが責任を引き受けなくてはならないのか。先頭に立つのがばかばかしくなった、と言っても良いかもしれない。リーダーとしてではなく、一個人として己の正義を吐き出していれば、私だけが不利益を被る事もなくなる。なにより傷つく機会は格段に減るのだ。その様な思考過程の中にいれば、責任への問いを生む動機が先の様な形に変化する事は必然的であろう。問い自体も、私達はなぜ責任を引き受けなくてはならないのか、という事を主軸に据える形でその範囲を移動させている。
一方、「臆病」に、つまり消極的に責任を回避しがちであった私が積極的にその回避を擁護するようになった(ここではもちろん、そのような私はもはや「臆病」ではないとの主張が含意されている)のは、アルバイトとして塾講師を選択した事に大部分が起因すると思われる。そこでは一つ一つの行為が生徒の未来に影響を与えるという考え方が支配的であり、従ってそれぞれの行為に対して責任を持つべきだという了解がある。しかし私は思うのである。もし私達講師の行為が直接彼等の人生に影響を与えるのだとしたら、その全ての責任を引き受けるなどという事が本当に可能なのだろうか。私にはここで言われている「責任を持つべきだ」という言葉が建前の、非常に空虚なものに感じられてならない。そんな無意味な、生徒の努力を講師の影響の賜物という形に矮小化する点でむしろ有害とさえ言える考えを共有するよりも、私達が彼等に出来る事ないし責任を引き受けるべき内容は道の存在を示す事のみにあり、彼等の未来を決定するのは彼等自身であると割り切るべきではないだろうか。
責任を強調する主張は結局、自分にとって良い行為をすれば良い結果がもたらされると信じて疑わないのだろう。もしそれが正しければ、責任感溢れる講師が生徒の未来に生じせしめるは生徒の利益だけであって不利益は想定され得ない、だから「責任を持つべきだ」と言い得るというわけだ。しかし私達が想定する最も望ましい結果、例えば志望校に彼等が合格したとして、それがすなわち誰にとっても良い結果だという事になるのだろうか。シンデレラ・ストーリーとその逆の両方の可能性を、講師の責任を強調する主張は全く相手にしないのである。
己の価値観のもとに生徒達を押しつぶし、彼等の合格や不合格に涙する。そこに垣間見えるのは生徒の努力を己の行為の帰結として見るばかりか、生じた結果を自分の人生に重ねて良し悪しの判断をする、私に言わせれば恐ろしい講師の姿である。私はこの様な次第から、責任を積極的に回避しようという結論に現時点では至っている。
責任を巡る問いが私の中に占めるウェイトは日増しに大きくなっており、学部のゼミでも刑事責任(正確に言えば有責性)に焦点を当てたテーマ設定をする事となった。犯罪を成立させるに足る責任とは何か。非常に興味深い問いである。しかし正直なところを言えば、法的責任について学ぶ事で、道徳的責任についての理解をも深化させたいとの思いがある。責任という枠組みのもとで私は何をし得て何をし得ないのか。目下の問いはやはり道徳的な領域にあり続け、だからこそ、私はまだ小説を書き続けられるのである。

 

 


本当は『泡』(名大祭で販売する冊子)の原稿にしようと思っていたのですが、文芸作品とは言い難いし、あまりに閉じた内容だったのでやめました。
こういう文章を、今後書く小説の素地に出来たら良いなぁ……

最終更新:2014年03月17日 19:33