もう一人の彼女の真実(後編)

2013年06月07日(金) 23:02-鈴生れい


※これは後編です。先に前編を読んでください。


順調に進んでいるように見えた。友香自身も上向いていて、とても注意不足から車に轢かれるような状態じゃないし、お互いの恋愛もいい感じだった。このままなら、真子も友香も念願果たしてハッピーエンドだ。
しかし、真子にとっては予想外の事態が発生した。友香ではなく、叶野先輩が事故に巻き込まれたのだ。それもよりによって友香が告白を計画していた一週間前。先輩に最後の水泳勝負を挑み、友香が勝てば告白することになっていた。真子としては勝とうが負けようが告白して欲しかったのだが、そもそも勝負自体が消えてしまった。
叶野先輩の事故は命に関わりはしなかった。だが一カ月の間、水泳ができなくなってしまい、友香は勝負をすることを諦めてしまった。舞台を大学に移し、改めて勝負を挑もうと言うのだ。
「ダメだよ友香! いいから告白しなきゃ!」
「いや。勝負してからじゃなきゃ、できないよ」
あるいは、近い未来に友香に起こることを真子が知らなかったら、強く反対することはなかっただろう。でも真子は知っている。これから友香に起こることを。
彼女を助ける。これは絶対だけど、万が一助けられなかった時も考えておきたいのも事実。望が友香への想いを引きずったままにならないために、このタイミングで友香を失うわけにはいかないのだ。
「フラれるのが怖いの? そんなの誰だってそうだよ!」
「・・・・・・いいじゃない、放っておいて!」
真子も友香も全く冷静さを欠いていた。放課後の教室で大ゲンカし、どちらも折れようとはしなかった。元々友香は意地っ張りだし、こういう事態に至れば確実に自分の意見を曲げようとしないことは真子も重々承知していた。ただ今度だけは、真子が妥協するわけにはいかなかったのだ。
初めて喧嘩したまま、二人は仲直りできなかった。水泳部で顔は合わせるものの、折れることのできない真子は謝れない。結局話さずに練習だけして、帰りもバラバラになっている。一応真子は出るのを遅らせて友香の後ろを離れて歩いている。しかし距離があり過ぎて、有事の際に咄嗟の行動はとれない。真子は歯噛みしていた。

「友香と喧嘩してるの?」
ある冬の日の放課後、望が真子の教室にやってきた。彼は閑散としている教室を確認すると、自分の席に座っている真子の前の空席に腰かけ、そう尋ねた。
真子は一瞬悩んだが、隠しても仕方のないことだし、隠し通せないと思い、頷いた。
「ちょっと、あってね」
望には、友香の片思いのことは話していない。未来の望は友香がいなくなるまで知らなかったようだし、友香の名誉もあるが、何より望に伝えればとてもショッキングな出来事だろうと遠慮していたのだ。
だが望は、すっと目を細めた。真子は少しどきっとする。
「それは、友香の好きな人のこと?」
今度はどきっとするだけでは済まなかった。驚いて声すら出ない。真子からは言っていない。どうして望がそのことを・・・・・・。
目を見開いた真子を見て、望は納得したように頷いて、そっかと呟き天井を仰いだ。そこで真子はようやく、望が鎌かけをしたのだと思い至った。
「・・・・・・望くん」
「別に知ってたわけじゃないよ。まぁ、友香の様子から薄々勘付いてはいたけど」
真子は軽率な自分の行動を悔いた。未来の望と比べて、この望は友香との接触機会が多かったはずだ。そうなれば、決して鈍感ではない望のこと、あれほど分かりやすい幼馴染の恋慕など、簡単に見抜けてしかるべきだろう。
真子には、望にかける言葉が見つからない。声をかけようと口を開いても、喉は震えるだけだった。
「知ってると思うけど、僕は友香のこと、好きなんだ」
「・・・・・・うん」
望の声は揺れていた。けれど真子は、ただ頷くことしかできない。歯がゆい。悔しい。
「ずっと前から、それこそ生まれる前から知り合いだったけど、中学の時に初めて友香が好きだって思ったんだ」
その当時のことは真子も覚えている。小学校の頃はよく一緒にいた二人が、中学に上がる少し前ぐらいから一緒の様子を見る機会徐々に減った。
望はゆっくり息を吸って吐いた。ひょっとしたら、真子はそう思って、でも躊躇った。そんなことをすれば、望は真子から離れていってしまうかもしれない。それだけは嫌だ。
しかし目の前にいる望を、真子は放ってなどおけない。何かしてあげたい。何かしてあげなくてはいけない。
真子は衝動に駆られ、そのまま従った。やおら立ち上がり、望の首筋に両腕を回した。望の体がびくんと震えても、真子は止まらず、そのまま望を抱く腕に力を込めた。
望の表情は見えない。それでも望は拒絶しなかった。少し経ってから、むせぶような音が、教室の中に響き渡った。

運命の日は、気が付くとやってきていた。友香の命日。全ての歯車が狂った日。真子にとって、すべてがかかっている一日。
その日の真子は、五時に飛び起きた。あまりの不安に、前日床に就いても寝ることは遂にできず、ほとんど一睡もしていない。それでも眠気はなく、早鐘を打つ心臓は頭を無理やり叩き起こす。吐きそうになりながら、真子は準備をして、早々に出かけた。曇ってはいるが、雨は降らなそうだ。
結局、昨日に至るまで友香と仲直りはできなかった。もう先輩は卒業してしまっているが、早く告白するに越したことはない。それだけは譲れない。しかし今日だけはそれどころじゃない。絶対に友香を助けなければいけなかった。この状態で友香が死んでしまえば、最悪の結末しか待っていないからだ。
望とも、あまり連絡がとれなくなっていた。望本人に怒っている様子はなく、それについては安心した真子であったが、やはりこの前の一件以来真子は望に避けられていた。仕方ないと思いながらも、落胆は隠せない。真子には辛い状況が続いていた。
真子は友香の家の前まで来ると、さらに少し歩いて近くの公園まで移動した。遊具も少なく寂れている。時々犬の散歩をする老人が通るぐらいで、人もほとんどいないこの早朝の公園は、真子にとって都合が良かった。友香と喧嘩して以来、いつもここで友香が出てくるのを待っている。
人通りが皆無なわけではないので、怪しまれないよう参考書を広げながら、真子はじっと待った。当然ながら参考書の内容なんて全然頭の中に入ってこない。眠らないようにだけ気を付けながら、ただ友香が出てくるまで待ち続けた。
時計が七時を回る頃、友香が公園の脇を通り過ぎていった。友香はこの頃、朝早く起きて学校で勉強している。そこまで遠くない学校に対して、七時前に家を出るのはそのためだ。
真子はすぐに参考書を鞄に戻して、その後を少し離れて歩く。おそらく友香も気付いてはいるが、何も言っては来なかった。その気持ちは真子にも分かる。何と言えばいいのか分からない。
沈黙の登校は何事もなく終了し、友香は自分の教室へと向かった。まさか教室で何が起こるわけでもないので、真子も自分の教室に行く。道中交差点に近づくたびに心臓の鼓動で視界が揺れるほどだったので、真子は疲れていた。前日寝ていないことも災いして、つかぬ間の休息とばかり、教室で席に着くと吸い込まれるように眠ってしまった。

その日の真子の授業態度はかつてないほどひどかっただろう。襲う眠気に負けるか、襲う不安に上の空になるかどちらかだった。それも致し方なく、真子は今にも動き出したいのを堪えに堪えて、放課後を待った。
この頃、友香は練習に来るかどうかまちまちになっていた。喧嘩している真子と顔を合わせなければならないのだから当然と言えば当然なのだが、あまり友香らしくない。
ただ最近、見るからに友香はやつれていた。目の下の隅や話し声など分かりやすいところ以外でも、全体的に疲れている様子がある。叶野先輩と勝負するため必死で練習していた頃も疲れてはいたのだが、今の友香は衰弱に近いように感じた。肉体的より精神的な疲労が大きいのだ。
注意が散漫し、押せば倒れてしまいそうな友香。前の友香がどうして亡くなったのか、正確なところは分からないが、確かに今の彼女なら、車に轢かれてしまうのも得心がいく。
(そんなこと、絶対させない)
真子は放課後を知らせるチャイムが鳴ると同時、脇目も振らず教室を飛び出た。行先は言わずもがな、教室の前まで行くと、丁度友香が出て行くところだった。友香の足は真っ直ぐ下駄箱へと向かい、革靴に履き替えると、そのまま校門へと進んだ。どうやら今日は練習に参加もしないし、図書館で勉強もしないようだ。真子は悟られないよう、それでもぎりぎりまで距離を詰めて歩く。友香はちらりとも後ろを確認しなかった。
手に汗が浮かび、何度もスカートで拭った。膝が笑いそうになり、その度に膝を叩いて叱咤した。全てが決まる。今日で、この二年半の意味が決まる。友香が死に、望と添い遂げられない未来を捨て、ここまでやってきたことは正しかったのかどうか、決まるのだ。
今まで迎えたどんな局面より、いや、かつて望に告白した時と同じぐらい激烈な緊張が体を支配し、生きている心地がしない。交差点が近づき、何事もなく通り過ぎるごとに、全身から力が抜けてしまいそうになる。
歩みを繰り返すこと十五分。真子のプレッシャーはピークに達した。いよいよ、二人は問題の交差点に差し掛かった。
交差点の様子は普段と変わらない。横断歩道を挟んで向こう側にはスーパーの背面がそびえ、こちらからでも少し様子がうかがえる駐車場は、夕方という時間帯のため、込み合っている。とはいえ、この交差点は直接スーパーの入り口とは関わっていないから、交通量に然程の変化は見当たらない。現に片側に二車線有っても通過する車両の台数は、友香が信号待ちしている間に二、三台程度だった。
進路に垂直な道路の歩行者信号が点滅し始めたときから、真子は辺りを警戒し始めた。スピード違反の車はいないか、黄色になっていながら、なおスピードを緩める気配のない車はいないか。
黄色が赤になろうという、そんなときであった。
一台の軽トラックが、一般道で許可されている速度を凌駕して、向かって右手側方向から現れた。今しがた現れたのだから、この交差点に到着する頃には赤信号で一旦停止しなくてはならない。それでも軽トラックは、前方が見えていないかのように速度を緩めない。わずかに見えた運転手は、視線を手許へと向けていた。
一方、友香はこちら側の歩行者信号が青になると同時に、横断歩道を渡り始めてしまっていた。暴走する軽トラに反応する気配はない。気付いていないのだ。
――ここだっ!
友香を助けるためには、この一瞬しかない。今、自分が飛び出せば、友香を助けられる。友香を突き飛ばせば、なんとか友香が轢かれるという最悪の事態を避けられる。
躊躇いはなかった。ありったけの想いを込めて、地面を蹴る。絶対、助けるんだ!

でも、真子の体が傾いだ。

真子はすぐに異常を感じ取った。自分は今転びそうになっている。ただ歩いていただけなら、なんとか踏ん張ることもできただろう。しかし、今の真子は、全力で走ろうとした最初の一歩だったのだ。
なすすべもなく、体はどんどん傾き、受け身すら取れず、真子は地面に倒れ込んだ。鈍い痛みが上半身を貫く。それでも真子は顔を上げて前に進もうとした。目を開けた直後、それが間に合わないと分かり、真子はせめて叫ぼうとした。
「・・・・・・ともかっ!」
決して大きくなかったその叫び声すら、軽トラックの甲高いブレーキ音がかき消してしまう。さらにその音に驚いたのか、友香は両膝を地面に突いてしまい、歩けなくなっていた。辺りを、クラクションの音がつんざいて、真子の視界は、真っ白になった。
「「うあああああああっ!」」
真子が絶望の悲鳴を上げたとき、叫び声はダブって聞こえていた。真っ白になった視界が、一瞬にしてまた元に戻る。トラックは直前まで迫っている。その極限の最中、誰かが友香に向かって走っていた。考えるまでもなく、すぐさまそれが誰か直感した。
「のぞ――」
望が友香に飛び込んでいったと同時、真子の目の前をトラックが通過した。

「望っ!」
悲痛な叫びが、止まっていた思考を現実世界へと引き戻した。聞き慣れた声だが、これほどまでに悲嘆に満ちた声色に聞き覚えはない。何をそんなに悲しんでいるのか、真子は呆然としたまま考えていた。
「望、しっかりして! 望っ!」
真子の目には、友香と望の姿が映っている。突き飛ばされた際に体のあちこちに擦り傷を作った友香と、両足がいびつに曲がり、頭から血を流してぐったりと動かない望が。
友香の顔は蒼白だった。突然起きた惨劇、それに頭がついていけていないのは明白で、必死に目を閉じたままの望に呼びかけている。辺りではざわめきが広がっていた。交通量が少ないとはいえ、目撃者は何人もいる。近くにいた若い私服の男性が、携帯電話でどこかへ電話をしていた。
「望、望!」
「落ち着いて! とにかく彼を安全な場所へ! 誰か手伝ってください!」
スーツ姿の別の男性が友香に歩み寄ると、辺りに呼びかけた。すぐに数人の男性たちが集まって、望の体を危険のない場所へと慎重に移動する。運ばれる最中、だらりと垂れていた手は、血が通っていないような色をしていた。
「大丈夫?」
その様子を地面に這いつくばったまま見ていた真子の視界に、しわしわの手が差し出された。顔を上げると、高齢の女性が労わるような顔つきで手を差し伸べてくれている。真子は少し擦りむいた右手で、その手を掴んだ。負担にならないよう、少しだけ体重を預けて立ち上がる。真子の怪我はせいぜい擦過傷ぐらいで、大したことはなかった。何しろ、こけただけの役立たずだったのだから。
「お嬢さん、大丈夫?」
老婆の問いに、真子は視線も向けずに頷いた。でも、望は・・・・・・。
ふらふらした足取りで、真子は横断歩道を渡った。望の傍へ近づいて見る。少し長めの黒い髪は赤黒い血でべったりと固まり、向う脛が有りえない形に変形していた。どう考えても折れてしまっている。
「ダメだ、呼吸が止まってるぞ! 人工呼吸を!」
真子の理解が追いつかぬ間に、状況は悪い方向へと向かっていた。望が死ぬ。死んでしまう。
「・・・・・・いや」
ずっとずっと好きで、小さい頃からずっと、他の人が好きでもずっと、彼の好きな人のいない未来を捨ててまで、ずっと好きだった望が、死ぬ。
「いやああああああっ!」
真子の視界がスパークする。白い火花が飛び散り、何度も何度も真っ白になる。こんなことになると知っていたら、絶対過去になんて戻ったりしなかったのに!
明滅する視界の中で、真子の意識は徐々に薄れていく。もう、嫌だ。こんな世界、生きていたって仕方ない
「真子、真子っ!」
遠くから呼ぶ声が聞こえる。そっと、両肩に何かが触れた。視界の白が収まり、目の前に再び現実の世界が戻る。いつの間にか、自分は座り込んでしまっていたようだ。目の前に望の姿は見えない。
「真子、大丈夫?」
友香が屈み、自分の両肩に手を添えていた。そうだ、友香は・・・・・・。
「友香はっ?」
勢い込んでしまい、咳が喉を突いた。友香が背中をさすってくれながら、私は大丈夫と言った。
「擦り傷と、ちょっと手首とかを捻っただけ。一応検査には行ってくるけど」
当初の目的自体は、どうやら達成したようだ。友香は死ななかった。これからどうなるのかは分からないが、しばらくは気を付けて生活するだろうから、突然死んでしまうことはないはずだ。
真子は少しだけ安堵の息を吐きながら、次いで訊ねた。
「望くん・・・・・・は?」
望の様子は尋常でなかった。思い出すだけで目の前がくらくらするが、今耳を塞いでしまうわけにはいかない。自分が引き起こしたことだ。
友香は逡巡して、意を決したように重苦しく口を開いた。
「・・・・・・まだ、分からない。さっき救急車で運ばれてった。息は吹き返したみたいだけど、予断は許さないって言ってた」
真子の全身から、力が抜けた。まだ、望は生きている。希望は、断たれていない。
「・・・・・・真子? 真子は大丈夫なの?」
「・・・・・・私は平気。友香、私、友香に話さなきゃいけないことがあるの」
何、と友香は首を傾げた。真子は、友香に真実を話すことにした。緊張はない。ただ微かな希望と、自責の念が自分の中に渦巻いているだけだった。
「・・・・・・私、未来から来たの」

望は、一命を取り留めた。
頭をひどく打ち付けており、両足も骨折していたが、奇跡的に脳や内臓への損傷はほぼなく、全治まで何カ月とかかるとはいえ、治療とリハビリさえこなせば元の生活に戻れるまで回復するそうだ。
それを聞いたとき、真子はあまりの安堵に気を失いかけた。傍にいた友香が苦笑しながら支えてくれたのを覚えている。
友香は、真摯に真子の話を聞いてくれた。未来から来たという話も、あっさりと信じてくれて、却って拍子抜けしたぐらいだった。
真子は全て話した。これまであった全てのこと。友香が亡くなり、望にフラれて時間を遡り、友香が事故に遭わないために画策し、望にもそのことを打ち明けて協力を仰ぎ、結局自分は何もできずに望があんなことになってしまったということ。そして、自分はずっと望が好きで、望と一緒にいる友香が羨ましくて、でも友香も大好きだから嫌いになれなくて、板挟みのところに現れたのが叶野先輩だということ。その機会に乗じて、望と仲良くなろうとしたこと。洗いざらい、全てだった。
友香はそれを聞いても、真子を見限ったり、怒鳴ったりはしなかった。それどころか、真子に頭を下げた。ごめん、ありがとう、と。
真子は語気を強めて言った。私、最低だよ。私の都合で、望くんがあんなことになっちゃったんだもん。最低だよ。
真子は泣くのを我慢した。泣いたら、まるで許しを乞うているになってしまうから。自分は許されるべきではない。良くないことだと分かっていながら、友香と喧嘩し、友香と別れた。リスクが大きく、絶対にやるべきことではなかったのだ。自分の都合を優先させて、友香や望を危険にさらすことなんて。
友香にどんな顔を向けていいか分からず、真子は顔を俯けた。考えれば考えるほど、なんて自分は身勝手なんだろう。そんな思いが真子を責め立てる。否、真子は責め立てて欲しかった。
しかし、友香はそんなに甘くない。友香は一言たりとも真子を責めはしなかった。何度もありがとうを繰り返し、お疲れ様と労った。その優しさが棘のように真子の心に刺さる。どうして、自分は責められないの。自分を怒って、そう真子は友香に懇願した。
友香は首を振る。だって、真子がいなかったら、私は死んでたもん。真子のおかげで、私はこうして生きてるし、これからも生きていける。叶野先輩に、想いを伝えることだって出来るから。
真子の中の良心の呵責は、結局誰によっても収められなかった。会う人会う人友香や真子を心配し、事情を知らないから当然とはいえ真子を責める人など誰もいなかった。

しばらくして、望が意識を取り戻したとの吉報が入り、二カ月ほど経ってから、面会ができるようになった。友香は面会ができるようになってから、すぐに望に会いに行った。十七年来の幼馴染で、命の恩人なのだ。心配や感謝で胸が詰まることだって一回や二回ではなかっただろう。
でも真子は、望に会わせる顔がなかった。本来遭うはずのなかった事故にひき遭わせて、望をめちゃくちゃにしてしまったのは自分なのだ。とても面と向かって会うなんてできない。・・・・・・会いたいけど、会えない。
「真子」
梅雨も明けようかというある日の放課後、暗澹たる気持ちを延々抱え続けている真子に、友香が会いに来た。少し前、水泳部の大会があったが、友香も真子も欠場した。友香は怪我の件もありあまり練習できなかったし、真子は精神的に水泳できる状態ではなかったためだ。二人はそのまま引退した。
あの事故の後、一度だけ大学に進学した叶野先輩が事故のことを案じて友香を尋ねてきた。その時に、友香は先輩に告白したと聞いている。結果は保留となっているそうだ。あれだけ意固地だったのに、と友香に尋ねたら、友香は少し後悔のようなものを浮かべながら、いつ伝えられなくなっちゃうか分からなくなるから、と言っていた。
「友香、どうしたの?」
「望に会いに行くよ」
え、と聞き直す暇も与えず、友香はさっさと真子の腕をひっ捕らえると、ぐいぐい引っ張って下駄箱へと邁進した。片足で跳ねながら真子も続く。待ってと制する声を上げても、友香はずんずん進んでいく。
「望がね、真子に会いたがってるの」
下駄箱まで来ると、友香が振り返りざまに言った。夕暮れの中振り返った友香は、同性の真子をして綺麗だと思わしめるぐらいに壮麗であった。
「・・・・・・でも、私、望くんに合わせる顔なんて」
「いいじゃん、望が会いたいって言ってるんだから」
ゆるりと微笑む友香。近くの傘立ての中で、雫が傘から音を立てて落ちた。
真子は、少しだけ躊躇った後、うんと上ずった声で覚悟決めた。

「――久しぶりだね、峰川さん」
純白の布団にくるまれ横たわる望の言葉に棘はない。大きな安堵と同時に真子はいたたまれない気持ちになって、手に汗が滲んだ。
泣いちゃだめだ。泣くのは、自分に甘えるってことだから。
「よ、良かった。望くんが、生きててくれて」
「相当危なかったらしいね」
まるで他人事のように軽口をたたく望。そうは言っても、意識のなかった彼にとっては今残るこの状況だけが事故の凄惨さを物語る証拠なのだから、どこか他人事でも仕方がない気がする。
そう、自分はそれほどの危険に望を巻き込んだ張本人なのだ。どうして、そんな人の前で望は緩やかに微笑んでいるんだろう。どうして、彼は自分を責め立てないのだろう。
沈黙してしまっている真子に対して、望は饒舌だった。閉まっている病室の扉をちらっと確認すると、
「僕ね、友香にフラれちゃったよ」
真子は声を上げこそしたものの、さほど驚いてはいなかった。友香自身、先輩に告白していたようだし、その状況で望の告白など受け入れられるべくもない。
望は苦笑していた。
「というより、フラれるために告白したのかな。友香は、最初から僕のこと男としては見てなかったし」
違う、違うのだ。友香も少なからず望を好いていた。でなければあんなに苦しい思いをしたのが、バカみたいではないか。
「まぁ、吹っ切れるしかなかったんだよね。友香は僕の方を向いてはくれない。いつまでもずるずる引きずって、友香との関係がなくなっちゃうのはもっと嫌だったし」
あっけらかんとしている望の、唇が震えているのを真子は見逃さなかった。
「でも、ありがとね。おかげで、友香が生き残った。僕もこうして無事だ。万々歳だよ」
「ど、どうして・・・・・・」
「え?」
真子の中で、何かが壊れていく。それは、この二カ月の間にため込んだものであって、二年半前から始まったものであって、ずっと前から想っていたことであった。
「どうして、私を怒らないの? 私のせいで、望くんは死んじゃうとこだった! 私、私が、もっとしっかりしてたら、こんなことになんて・・・・・・。私のせいなのに! 望くんがいなくなっちゃったら、私――」
真子の中で渦巻く激情が、滝のように口から溢れていく。握りしめた拳が赤く悲鳴を上げ、きつく結んだ瞼の端から、きらり輝く粒が覗いた。
彼女はずっと、崖っぷちに立っていたのだ。ほんの少し、誰かに押されるか、足元がふらついてしまうだけで奈落へと落ちてしまうような崖に。一度突き落とされ、どん底から蜘蛛の糸で這い上がってきた彼女は今、その蜘蛛の糸を自ら切ってしまおうとしている。一度落ちた身に、地上は明るすぎたのだ。
「・・・・・・勝手かもしれないけど、僕も、君がいなくなったら嫌だよ」
切ってしまおうとしたその糸を、地上の人がきっちり掴んできた。
「でも、でも!」
「君がどう思ってようと、僕は君にいなくなって欲しくないんだ、真子さん」
なおも糸を切ろうとする彼女の手を、彼は掴んでしまう。糸がなくたって、落ちないように。
「少しだけ、待ってくれないかな」
「え、え?」
「身勝手だけど、少しで良い。今の僕じゃ、君の気持ちは受け入れられないから」
今度はその手を引っ張り上げようとする。後少しだけ、力があれば、彼女は地上へと戻れるだろう。今度は、落ちないように崖っぷちから遠ざかろう。彼となら、きっと大丈夫。
「だから、お願い。一緒にいて、真子さん」
彼に掴まれた手を、彼女は――

「――はい!」

しっかりと握り返したのだった。


Fin


読了ありがとうございました。以上で「彼の選択」以降続いてきた物語は完結になります。
まぁそのうち二つがつい最近書いたものなんですけどね。

「なんだよ過去に戻るって」と思われた方もいらっしゃると思います。本当にご都合主義ですね、すみません。
一応、「少し不思議なことがある」世界での物語なので、という設定があったりしますが、そんなこと関係ないですし。
言い訳させてもらうと、今回の過去に戻るという行為は、ただの舞台装置でしかありません。それ自体に重要性はなく、「友香が死ぬ」という「彼の選択」の段階で確定していることを回避しようとしたらこうならざるを得なくなったと言うだけです。
もっと簡単に言えば、技量不足です。本当に申し訳ありません。

この「もう一人の彼女の真実」を除けば、作品の順番は「彼女の憧憬」→「彼の選択」となります。反対にこの作品を含めれば、「彼の選択」→「彼女の憧憬」→「もう一人の彼女の真実」となります。
正直これをやってみたかっただけかもしれません。どちらで読んでも違和感ないようになっているはずですが、「彼の選択」自体一年以上前の作品なのでなんとも。
特に「彼の選択」を書いた段階で続けるつもりは毛頭ありませんでした。おかげで伏線は後から見出している状態なので、矛盾があったらごめんなさい。
ちなみに、その結果劇中で一番あおりを食らったのは瑞乃です。彼女も出したかったのですがどうしようも・・・・・・。

ともあれ、長い作品を読んでいただきありがとうございました(結局この「もう一人の彼女の真実」が三作品の中で最長でした。ただの補完だったはずなのに)
また別の作品でお会いできるのを心待ちにしております。「わたしといとこ」シリーズもよろしかったらぜひ。

最終更新:2014年03月17日 19:35