秋告の音(お題「あき」「音」)

2013年06月26日(水) 18:37-ふっしい


頬撫ぜるぬるい風に目を開けた。
街明かりで黒く染まりきれない夜空は、まるで恥ずかしがっているかのように小さな星を隠してしまっている。20日程前にキャンプ場で見た天の川を思い出して舌打ちすると、僕は立ち上がった。
そこはうちのバルコニーで、僕は椅子の背もたれを倒してくつろいでるうちに寝てしまったようだった。
それにしても、何やら焦げ臭い。
「源五郎! 起きたなら片付け手伝いな!」
母さんはガラス戸を開けて怒鳴ると、ピシャリと閉めてしまった。その態度にイラつきながら振り向いて気が付いた。そういえば、ここでバーベキューをしていたんだった。
肉汁のこびりついた網の奥を覗き込めば、すっかり白い化粧をした炭が、チロチロと燃えている。時々、思い出したかのようにパチッと爆ぜた。
僕は網を家の中に運び入れると、コンロに燻る燃え残りのカスを、ススで黒ずんだブリキの缶詰に乱雑に押し込んだ。燃えやすいから着火剤の代用になるのだ。

 


リリリリリリリリッ
バルコニーを片付けていると、コオロギが鳴いていることに気が付いた。大きな音なのに、背景になり切っていて気づかなかったことに驚いた。
手を止めて耳を澄ませば、他にも様々な虫が鳴いている。名前も知らない虫達。
もう、秋が来ていたのか。
だが、それは夏の終わりでもある。
「おい、コオロギ。そんなに目立ちたいなら出て来いよ!」
苛立ちをぶつけるように叫ぶと、一斉に虫たちの合奏が止んだ。まるで僕の声がすべての音を相殺したかのような静けさ。
でも、しばらくすると一匹が鳴き始め、それに引き続いてまた一匹、また一匹と元通りになっていく。その様子に、何故か安堵する僕がいた。
しかし、僕の近くによくもこんなにたくさんの虫がいたものだ。バルコニーのプランターや一階の庭、隣近所の庭と居そうな場所を指折り数えていっても、一度もグーにならない。
その姿が本当に見たくなって、プランターの中の名前もよく分からない植物の葉を覗き込んだそのとき。
母さんの怒号と共に頭に激痛が走った。
「夜に叫ぶんじゃないよ!」

 

「源五郎博士、起きてください!」
目覚めると、そこは見慣れた研究室。清潔感の溢れる真っ白な部屋には、数多のフラスコやピペット、恒温槽に試験管、数字や記号を羅列したモニターなどの数々の機器が所狭しと並んでる。壁の時計は十二時を回ったところと指している。この大学の学生のほとんどが帰ってしまったみたいだ。静寂の中、遠心分離機のモーター音がうるさく感じた。
「起きました?」
寝ぼけた頭で振り返れば、白衣を纏った助教授の日高君がそこにいた。僕を叩いたバインダーを持って、心配気な顔をしていた。むっさいうちの研究室で唯一の女性研究員。多くの男子学生の唯一の支えになっている。
「博士、大丈夫ですか?」
「叩かれたとこが痛むよ」
「精密機器の近くでうとうとするからですよ。試料に唾液が入ったら、一体どうするんですか」
「……そうだな。すまん」
「いつになく素直ですね。寝ぼけてますか?」
かもな、とうわ言のように呟くと、彼女は、コーヒーを煎れてきますとドリッパーに向かった。僕はシャーレを一瞥してため息をついた。

2050年頃、スズムシが絶滅。
それを境に、マツムシ、カネタタキ、コオロギと次々に秋の弦楽団達は楽器を置いた。
気づけば秋は静かだった。ススキは博物館の展示物になり、月のうさぎは月面都市の明かりに塗り潰され、月見団子は忘れ去られた。屋内に仕舞われた稲は、季節感なんてとうの昔に失って年中稲穂を黄金色に染めた。
秋の到来を告げる音が無くなり、誰もが秋というものを忘れ去ったのかもしれない。
「雑音だと思っていたのにな」
いなくなって初めてその大切さに気が付く。
「まるで恋人みたいだな」
遠くから「コーヒーできましたよ」と聞こえて、僕は重い腰を上げた。

「それで、日高君の研究はどうかね」
「はい、三世代目の半分が三回目の脱皮を成功させました」
研究室の前の休憩所のテーブルに座り、僕はコーヒーを啜った。僕の脳細胞がカフェインに叩き起こされていくのを感じた。
「そうか。もうすぐ、夢が叶うのか」
「その割には嬉しそうじゃないですね」
「鋭いな」
「何年ここにいると思ってるんですか」
微笑む彼女に安心したのか、僕はここで言ってはならない心中を吐露した。
「果たして、コオロギのクローンを造って何か意味があるのかと。神の設計図を盗み出し、つい殺しちゃった、と勝手にゾンビを造り出して。長生きしないのも、この世に嫌気がさしてるからと思えてならないんだ」
僕の研究は、絶滅した生物のゲノムを解析し、そのクローンを造りだすことだ。この技術の実用化は既になされているのだが、どうしても寿命が極端に短くなってしまっているのだ。
彼女は呆れた表情を浮かべた。
「何を言っているんですか。このプロジェクトに賛同していたじゃないですか」
ゲットフォールバックプロジェクト。直訳すれば、秋を取り戻す計画。
「こんな計画、フォールバック(撤退)した方がいいのかもなぁ」
「どうしてです? かつての秋の文化の復活は進んでますし、月の表面を元のように見せる技術も確立されました。秋は、もうすぐ復活するんですよ?」
この計画に当初からものすごく関心を寄せていた彼女だ。僕のくだらないダジャレをスルーしてまくし立てるのも無理はない。
僕はおもむろに立ち上がり、窓のそばまでゆっくりと歩いて、その奥に広がる世界を眺めて呟いた。
「秋は手繰り寄せるものじゃない。アブラゼミがヒグラシに変わり、コオロギが鳴き始め、初めてやってくるものだ」
「だからこそ、コオロギをーー」
「いや、コオロギは鳴かないよ」
灯火で歪になった三日月を憎しみと共に睨みつけ、ブラインドを下ろした。
「彼らはね、綺麗な月夜にススキ野のデートに彼女を誘うため一生懸命に鳴くんだ。日本はその光景を失った。申し訳程度の緑を残してすべてを破壊され、コンクリートに覆われたこんな世界に蘇り、果たして彼らは喜ぶか?」
コーヒーを啜るも既に冷めていた。彼女は顔を俯かせ、すがるかのように呟いた。
「この研究、博士はお辞めになりますか?」
「辞めないよ。たとえ秋が来なくても、コオロギはきっと蘇る。課題に対して一定の成果さえ上げれれば学生達は評価され、きっと就職できるから」
残り少ないコーヒーを流し込むとマスクをし、自分の持ち場に戻ろうとした。
リリリリリリリリッ
僕は立ち止まった。
「日高君、コオロギはまだ幼虫だよね?」
「はい、それがどうかしました?」
なんでもない、とその場を離れた。
幻聴か、はたまた生き残りか。ただ、聞こえたその音はとても小さかった。
「そういえば、今日は8月26日か」
案外、秋はすぐそばに来ていたのかもしれない。

最終更新:2014年03月17日 19:37