(お題「夏祭り」)

2013年08月11日(日) 13:21-弥田

昼過ぎだというのに薄暗かった。部屋に篭もってKと二人、ぬるい発泡酒を飲んでいた。熟れた夏の暑気はべとついて、汗ばんだ肌へ執拗に纏わりつく。ときおり吹き抜ける風は生臭く、雨の気配が重く漂っていた。
「しかしこのヤブ蚊にはまいったね」
飛びまわる羽虫をハエタタキで打ちながら、独りごちるようにKが愚痴る。先ほどから首もとを加減無く掻きむしっているので、薄皮が破れて、うっすら血が滲んで痛々しい。なおいじろうとするのを注意したが、痒いものは痒いのだ、と聞く耳をもたなかった。
「キミはいいよな。さっきから蚊が寄りつかない。よっぽど不味そうに見えるんだろうね」
「もともとそういう性質なんだよ。そうでもなきゃ、こんなところ引っ越してこないさ」
「というと、はじめから蚊の湧くことを承知していたのかい」
Kは僕の顔をまじまじと見ながら、正気を疑うね、とちいさくつぶやいた。

家の裏手にドブ川が流れているのだった。ドブ川といっても正確な名前だってあるのだろうが僕は知らない。ヤブ蚊はみなここからやってくる。澱んだ川面にボウフラがやたらと湧くのだ。周囲には極彩色の植物が繁茂しており、鼠やら野良猫やらが迷い込んではそのまま住み着いている。とにかく評判のよくない川で、生活排水やら糞便やら得体の知れない物が流れ込んでおり、近づくとその異様な臭気に目をやられた。向かいの女がめくらになったのは川に落ちたせいだ、などという噂が蔓延しており、近隣の住人に半ば冗談、半ば本気で信じられている。

「祭りはいつごろ始まるんだったかな」
「夕方だったかな。まだ昼過ぎだ、気長に待とうよ」
「こんなところで気長にも何も無いじゃないか。すぐにでも発ちたいくらいさ」
「まあまあ、そう慌てることないだろう。ほら、ビールでも飲みなよ」
「これだって俺が買ってきた酒じゃないか」
「しかもぬるい」
「そうだよ、ぬるい。その冷蔵庫、壊れてるんじゃないか」
「中古だからな。Sからのもらいモンなんだ。タダで譲ってくれたんだ」
「おいおい、あいつ、酔っ払った夜に製氷機で小便凍らせたんだぜ、知らないのか。俺もその日に泊まり込んでたんだが、翌朝さ、水汲んでよ、飲もうとしたら、コップの中の氷がさ、濃い黄色に濁ってさ……」
「うえ、ありがと、覚えとくよ。さいわい、まだ氷は作ってないんだ。既製品を買う癖がついてて」
その時、遠くで雷が鳴った。
「降るかな」
「どうだろ」
「ま、すぐに過ぎるだろうよ」
「夕立にはちょいと早いくらいか」

Kの言うとおり、雷雨はすぐに去っていった。夏祭りは予定通りに開催された。日暮れ頃、合図の号砲が聞こえて、市民公園へと連れ立って歩いた。祭りは明るく賑わっていた。粗暴なテキ屋がひしめき、しわがれ声で客引きをしていた。まるい提灯が夜の闇をくっきりとさせていた。
「おお、本当だ。よさげな娘が大勢いるじゃないか、見た目もよくて、ノリも軽そうで」
「だろ。さすがこういうところは違うね。ただ、商売っ気の強いやつはプライベートでも駄賃をねだってくるから、そこだけは気をつけてくれ」
「荷風が生きてりゃ泣いて喜んだろうね、わかった、それじゃ、俺は適当に見繕ってくるよ、また部屋で落ち合おう」
Kは早口でまくし立てるなり、闇にまぎれてどこかへ行ってしまった。こちらはさすがに、着いたばかりでそんな気にもなれなかったので、見知った売人でもいないかと、人気の少ないところを見て歩いた。鉄棒のところにYがいたので、ハッパをすこし買う。こそこそと手で巻いて、火をつけて、吸って、吐いて、そこで女に出くわした。向かいのめくら女だ。白杖をかかえこむようにして、植樹された柳の木の根に座り込んでいた。知らない仲でもなかったので声をかけると、向こうも会釈をかえしてきた。
「ひとりですか」
「ええ」
「この人混みでしょう、不便ではないですか」
「慣れてるから、大丈夫……。ね、そんなことより、よければ一口くださいな」
「どうぞ」
ハッパを吸わせてやると、控えめに吸い込んで、吐く煙も見えないくらいだった。
「やっぱり匂いでわかるんですか」
「匂い? ……ああ、そういうわけでもないけれど、勘みたいなものね」
「隣に座ってもいいかな」
「どうぞ」
女は地味な紺がすりの浴衣を着ていた。胸元がすこしはだけているのを直してやると顔を赤らめ、「ありがとう」と言った。礼がわりにたこ焼きをひとつ貰う。大粒のそれを口の中で咀嚼していると、
「あなたもひとりなの?」
と女が聞く。急いで飲み込み、
「いえ、連れがひとり。……今は、はぐれてしまっているのですが」
「あててみせましょうか、女の子を口説いてるんでしょう」
「あはは、まさか。いたって真面目な奴ですよ」
「そう。じゃあそういうことにしときましょうか。ね、たこ焼き食べる?」
「いただきます」
女は息で冷ましたのを僕の口元まで持って行き、しかし、にや、と笑って自分で食べてしまった。思わず苦笑し、なにか言ってやろうかと開けかけた唇に、女の唇が重なり、よく噛みこなされたのが流れこむと、ほのかに温かく……。

女を家まで送ることになった。道中、白杖を上手に繰って危なげもなく歩く姿を、感心して見ている。と、視線に勘づいたのか、「これだけマスターするのにも時間がかかったのよ」と笑う。めくらは皆そうなのだろうか、ハッパの件といい、やけに鋭いその直感がなんとなく恐ろしく思えて、「生まれつきではないのですか」などとつい余計なことを聞いてしまった。
「そうよ、川に落ちた、ってHさんに聞かなかった?」
「ええ、聞きはしましたが、無責任な噂話かと」
「本当の話よ。目がやられたのも、その時」
なるほど、と僕は生返事した。
それから、どちらからということもなく黙りこくってしまって、無言で歩いていると、そのうちに件の川が見えてきた。
「そういえば雨が降ったのだっけ。きっとずいぶん増水しているはずよ」
女が言うので、見てみれば、なるほど。普段は膝の辺りまでしかないような水面が、縁いっぱいにまであがってきている。それでも臭気は薄まることなく、鼻の奥がちくちくと疼いた。
「川にはね、いろんなものが流れているのですよ」
しみじみとした風情で、ぽつり、女がこぼした。
「例えば、死体とかですか」
どこか気まずい空気を変えたくて、ははは、とひとり笑ったが、なおも女は真面目な顔つきをくずさず、
「そうね、死体も」
そう言って、手近に生えていた花を二つ三つちぎると、川へと流した。
「これは線香代わりに……」
「すみません、軽率な冗談でした。昔、なにか事故でもあったのでしょうか、なにぶん来たばかりで、知らなかったものですから……」
「事故。……そうね、事故だって流れているわ。もちろん」
どうにも話が噛みあわない。女との交際が始まってまだいくばくもないが、時折このようなよくわからないことを言う癖があるのは承知していた。これまでと同じように、適当に話を合わせようと、
「諸行無常だといいますからな。太宰なんぞは言いましたね。一切は流れていきます、なんて」
「そうね、諸行無常も、太宰だって流れてる。川にはね、……この川にはね、一切が流れているのよ、本当よ、わたし見たもの」
「見たというと」
戸惑う僕を気遣うように、女の声の調子がぐっと優しくなった。
「昔、近所に仲のいい女の子がいてね、家も歳も近いから、よく遊んでもらっていたのだけれど……。ある日その子が、学校で男の子にね、家のこととかでからかわれて、ほら、わかるでしょ、ね。この川のことなんかも、ひきあいにされて、いろいろとひどいことを。きっと親が言ってるのを聞いちゃったんでしょうね、もしかしたら意味なんてわかってなかったかもしれないけれど、それで女の子怒っちゃってねえ。口論になって、最終的に、じゃあその川に飛び込めるのか、って」
優しげな口調こそそのままだったが、急に饒舌になって、どこか興奮したような風だった。女の手をひく腕に、ふいに絡みついてきて、柔らかな身体は汗ばみ、体温が燃えさかっていた。
「女の子も後に引けなくなっちゃって、それで公園の裏の、比較的人目につかないところで、裸になって飛び込んじゃったのね。でも、前日の雨で流れが勢いづいてたから、あっというまに流されちゃって。男の子はすぐ逃げちゃった。わたし、どうしようって」
肩の上に頬が乗る。なまめかしい呼気が鎖骨のあたりに吹きかけられて、背筋が薄ら寒くなった。
「それで……?」
「後を追って飛び込んだのよ。助けなくちゃ、って思って、パニックになって。でもダメね。やっぱり流されちゃって。服を脱ぐのも忘れてたから、余計に。それでもその女の子だけは助けなくちゃって」
急に女は口を閉ざした。僕は続きをうながすこともせず、ずっと待っていた。眼前では川が音を立ててうねっていた。泥の底になにか見えたような気がした。蟹のように見えたが、よくわからない。
黙った時と同じ唐突さで、女はふたたび語りはじめた。
「結局ね、女の子はすぐ引き上げられたの。男の子が助けを呼んで。それにもともと泳ぎは達者だったしね。その点わたしは、てんでだめで。浮かぶこともできずに、足を泥にかすめとられてしまって。それからしばらく川の中。息も出来なくて。くるしくて。だけどね、綺麗なのよ。静かで、目を開けると、昼なのに真っ暗で。その真っ暗な中に、時折さ、星粒のような光点が見えるの。これがね、よくよく目をこらしてみると、当時の学校の担任でね。とてもハンサムな人だったのだけれど。わたし、なんだかおかしくて笑っちゃった」
ふふふ、と女は実際に笑った。僕は笑わなかった。
「光の点はだんだん数を増していくのよね。それらはジャン・コクトーの詩だったり、数式の定理だったり、ホドロフスキーの映画の一幕だったり、木星の衛星エウロパだったり、どれも当時の私には理解できなかったのだけど、美しいものだということだけはわかった。わたしはそれらの光景をぼんやり眺めながら、静寂な川の底をたゆたっていた。
「どれくらいの間そうしていたのかわからないけれど、目覚めたときには家で寝かされていて、すでに視力は失われていた。その後、女の子にあったら、見た? って聞かれて。わたしは知らないふりをした。女の子は疑っていたけど。自分だけのものにしたかったのね、人に話したくないの。本当はね、いまだってだいぶ嘘を吐いているの。本当の川の底はね、言葉になんてできないものだもの。もっと混沌として……、暴力的で……。
「数年たって、女の子は死んだわ。川に飛びこんだの。きっと、もう一度あの光景を見てみたかったんでしょうね。かわいそうに。そのまま川に取り込まれてしまったんだわ。結局、死体が見つかることはなかった。身につけていた靴すらもね」
女がラリっているのは明らかだった。その体温は際限なく高まっていき、いまや触れているだけで火傷しそうなほどだ。冷たい夜気が心地よかった。女の呼吸は荒くなり、白い肌が色づいていた。胸元がふたたびはだけて、呼吸にあわせて大きく上下する胸郭が見えた。
「行こうか。キミは冷たい水でも飲んだ方がいいよ。それから、すこし休んだ方がいい」
「あら、わたし、クスリにあてられたわけじゃないわよ」
「それならそれでいいんだ。僕が疲れたんだよ。もう休みたい。家に来ないか? ビールがいっぱいあるよ。友人が持ってきてくれたんだ、Kっていうやつなんだけど」
「いいわ、信じてくれないならわたしにも考えがあるもの」
女が閉じていた瞼を開くと、僕は絶句してしまった。
「どう? 本当のこと言うとね、わたしの眼球は川の泥をたっぷり吸って、川そのものになってしまったの。だから私は川に入らなくても、こうしていつも素敵なものを見て暮らすことが出来るのよ。目をつぶるだけでね。あなたが今見たのはそのほんの一端にすぎないわ。ね、あなたって、わたしに似てる。あなただってこんなうわべの現実を見て生きているの、馬鹿らしいと思っているでしょ。昔のわたしと同じ。ね、信じてよ、あなたのこと、助けてあげたいのよ。大丈夫、安心して。ころあいを見てひきあげてあげるわ。それに本当に盲になるわけじゃないの。むしろもっといろんな物が見えるようになって、いまよりずっと暮らしやすくなるわ……」
女が鼻頭を首筋にこすりつけてくる。いくども、いくども、こすりつけてくる。川の臭気と女の甘い体臭がまじりあい、僕の思考を曖昧にぼやけさせる。
「ね、ね、いいでしょ。ね。お願いだから。ほら、とびこんでよ……、ほら……っ!」
ハッパの作用が頭にまでまわってきたのだ。なにもかもがハッパの作用なのだ。だから、とびこんでもいいかもしれない、と思う。すこしくらいならいいかもしれない、と思う。
「ほら、ほら、ほら」
女がしきりにはやしたてる。ので。僕は、あはは、と笑った。笑った。

 

 


二連続になってしまいました。夏休みで暇なのです。
夏祭りがあんまり関係していないような、しているような、ですがしているのですと断言してみようかななんて思ったり思わなかったり(曖昧)

最終更新:2014年03月17日 19:39