糸道(お題:「みち」「いと」)

2013年12月09日(月) 11:37-17+1

「仮にあいつらが俊敏な動きで迫ってくるようならこっちだってそれなりの緊張感を持って構えるじゃん?」
「まあ、まず単独で戦おうとは思わんな」
「そうそうそう!」膝裏で椅子を後方に押し出す音。束ねた後ろ髪が跳ね上がる。「一対一ならこちらに分があると見くびらせておいて、いや実際あるんだけど歴としたアドバンテージがそこには」
そう言ってから、小春日井(こがすがい)は開け放たれた扉の向こうに立っている人物に気がついた。熊手のような形の両手はそのままに、視線だけ真横へ向ける。
廊下で広山(ひろやま)が不適な笑みを浮かべていた。
「あれ、今日練習なんじゃ……」
「やめた」やめたった、と広山。スカートをなびかせながら教室に入ってくる。
「え? マジで?」先ほどまで小春日井の論説を聞いていた抱六(ほうろく)が頬杖から顎を浮かせた。「やめたって、三味線? とうとう?」
「それはもうすっぱりと」
「はー、それはまた英断というかなんというか」そう感想を述べたのは小春日井だった。
小春日井が着席し、広山も自分の席から椅子を持ってきて座る。一つの机を女子二人、男子一人で囲むこととなった。
「十年? あれ十二年?」
「十一年と八ヶ月」
「それだけの年月打ち込んできたものをさ、これからの人生から切り離すのには相当の覚悟を要するよね」
「普通に考えてもったいねえな」
「まあ、最初から習いたくてやってたわけじゃないから。お金もかかるし、そのくせ最後までパイプ椅子だったし……」広山は左手を目の前にかざしながら言う。「爪に塗ったり貼ったりもできなかったしい……」
「塗ったり貼ったりって」
「先生に引き止められたりした?」いや師匠? 師範か? と小春日井。
「されたされた。私と同じくらいに始めた子みんなやめちゃってたから。最終的には、たまには遊びに来るってことで合意に持ち込んだけど」先生でいいよー、と広山。
「あ、そんなんなの」
「そんなんだったよ」
「いやあ、いっぺん聴いてみたかったな。このまま一つの才能が、約十二年の努力の結晶が失われるかと思うと、実に惜しい」
抱六が腕組みをしながら言った。
「別に封印したわけじゃないし、気が向いたら弾いたげるよ。一生向かないだろうけど」
「翻らんの?」
「誰が翻るか」広山は笑った。「それに、そう簡単に消えるものでもないでしょ」
広山の左手人差し指の爪にはくぼみができており、硬くなった指先の皮膚にも糸が食い込んだ痕がくっきりと残っていた。
それは広山が手をかざしたときに抱六や小春日井にも見えていたし、二人と広山が知り合ってからこれまでずっと目にしてきたものであった。
「爪はすぐ伸びるとして、うーん、やっぱり鑢で削らないとだめかな…」
「一生そのままなんじゃねえの。それこそ」
という抱六の返しとは裏腹に。
広山の指はそれから一ヶ月も経たないうちにつるりとした何の変哲もないそれに変貌していた。高校生の恐るべき新陳代謝が十一年と八ヶ月の痕跡を指先からすっかりかき消した。
「消えました!」
朝礼前。ジャージの袖をまくって両手を突き出す広山。彼女の報告は叫びに近いものだった。
「あー」消えちゃったかー、と声が小さくなったのは小春日井。
「仕方ねえべ」抱六は茶化すように言った。
「いやあ、分かってたけどさあ、でももうちょっと粘れよっていうか、鉛筆の芯だってもっと長いこと居座ってるぞっていうか」
「また三味線やればつくんじゃねえの」つけたいならだけど、と抱六は付け加え、白い息を吐く。
「そうだけど……、それは違うじゃん。前のとは違うやつじゃん」
「別に好きじゃなかったんでしょ?」三味線、と小春日井。
「それは確実に言える」
「じゃあいいじゃん」
「んー腑に落ちないー。私はそんな単純な人間だったのか……」
「はいはい、体操始まるよ。終わり終わり」
もちろんこの件がこれで終わるはずもなく、その後も三人のあいだで一悶着があり、特に抱六は夕方の教室で涙を流す広山を前にして、「自分はこうやって『ちょっと気になる人』を増やしつづけることで何かから身を守っているつもりになってはいやしないだろうか」などと深く悩む羽目に陥るのだが、それはさておき。
広山がパイプ椅子に座ったときの姿勢の良さ、背筋の伸び具合、ガバリと広がった両脚、独特の風格については、さすがの新陳代謝もなすすべがなかった――そのことに三人が気づくには、卒業式を待たねばならぬようだった。

 

最終更新:2014年03月17日 19:52