供養

2014月01月11日(土) 12:50-    斉藤羊

窓際の席は現実逃避に向いている。
古典の授業中、そう、ちょうど紫の上が出てくるあたり、先生には悪いけれど何も考えずに頬杖ついて外を見上げた。ああ今日も空は青い。
佳苗は普通の女子高生で、毎日ブレザーのちょっとかわいい制服を着て毎日を過ごす。そのほとんどは学校か家で消費されて擦り減っていく。擦り減ることでで生きていることを実感する。それに疑問を持ったことが無いとは言わないけれど、佳苗にとって現状に不満はなかった。
冬の空気は冷たくて透明で、遠くに立つビルすらぼやけることなく見える。これならすべてが見えるような気がする。すべてを知れるような、そんな予兆。佳苗は何かが飛び込むのを待つかのように口を開けて、そう思った。
佳苗の手からするりとシャーペンが零れ落ちた。
シャーペンの落ちた小さな音は、古典教師の朗読の声にかき消された。かき消されたのだが、佳苗の耳にはきちんと聞こえていた。かき消した教師も、隣にいるクラスメイトでさえ気づかないような音だ。聞こえた瞬間、気づいてしまった。
そこは檻だった。彼女が逃げられるところはどこにもなかった。どこにも籠なんてなかったけど、そこには確かに檻があった。たぶん、それが形を持っていたことはないのだろう。佳苗は、これが形而下ということなのか、と思った。
授業終了の鐘が鳴る。敬っているどころか、生徒の半数は内心軽蔑しているような相手に頭を下げる。そのことに誰も何も思わない。そのことになぜか腹が立った。
授業が終わって掃除が始まる。やる気はないがサボる勇気もない連中が箒を片手に気もなく掃く。彼女も数分前までは、確かにそちら側だった。だというのに今は嫌悪しか湧かない。何が違うのだろうと考える。何が違ってしまったのだろう?
何かが変わってしまったのは確かだった。それは電車のレール切り替えのように決定的で不可逆的だった。それもわかる。佳苗は一つ一つ大切な箱から取り出すように、起こってしまった変化を思う。
佳苗は考えた。帰りのホームルームも終わり、クラスメイトは教室にほとんど残っていない。電気もいつの間にか消されていた。いくら晴れていたとはいえ、まだ二月だ。すでに日が落ちている教室で佳苗はぼおっと立っていた。

イオが今の彼氏と出会ったのは、町一番の歓楽街だった。
町一番とはいっても、特に大したものではない。地方都市での一番なんて、空寒いだけだ。
潰れたまま放置されている店はさすがにないが、やっているかやっていないのかわからない店なら多くあった。そして夜しか空いていない店も同じくらい多い。人通りが少ないわけではないが、特に熱気にあふれているわけではない。どこにでもありそうでどことなく悲しい、大半の人はそう思うだろう。そんな街で、十六歳のイオは春を売っていた。
イオにとって体を売ることはなんでもなかった。群衆の間をすり抜けるように抱かれ続けた時期もある。もちろんお金を貰いながら。たぶん一番大切なところが壊れてしまっているのだろうと、古びたラブホテルでどこの誰とも知らない男に好きにされなから、よく考えていた。

彼氏は会った当時高校三年生で、受験を控えていたらしい。受験生がなんで真っ昼間の歓楽街にいたんだとか思ったけれど、まあそう言うときもあるのだろう。イオは受験生と言うものをやったことはなかったし、たとえやっていたとしてもそれほどまじめにやるとは思えなかったから。
結構頭良い高校行ってたんだー、とは彼の言葉だったが、今の彼を見る限りイオにはそうとは思えなかった。
例えばテレビの前。例えばベッドの中。彼はただ自堕落であることが使命であるかのように毎日を過ごしている。彼がこれからどうやって生きていくのか、何をしたいのか、イオはかけらも知らない。いや知ろうとも思わない。
「なあイオー、電球ってどこだ?」
「え、そこらへんにない?」
「そこらへんってどこだよ…。あーもうイオが探せばいいじゃん」
気だるげにいう彼は相変わらず何も考えてなさそうな顔で、彼のそんな様子を見る度にイオは苛立ちと安堵をを覚えた。そしてそう思うこと自体に罪悪感を抱いて、イオは泣きたくなる。いつものことだ。
「ヨシノ…そろそろそういうこと覚えたら?」
「いいじゃん、俺にはイオがいるんだし」
馬鹿な女だ、イオは思う。私は馬鹿な女。まるで魔法の呪文のようにつぶやく。
(ヨシノの馬鹿な一言ですぐに許してしまおうとする私は、馬鹿女に違いないのだろう)
そう思うことで何故だか楽になれるような気がした。

結構寒い時期だったとイオは思っている。ただそれが一月だったか二月だったか、はたまた十二月だったかはあまり覚えていない。とにかく、昼間でも手をすり合わせなければ凍えてしまうような気がする時期だ。
待ち人がいたのだ。イオは寒い手をすりあわせて息を吐いた。暑い息はぼうっと目前で白い雲に変わる。耳は風に吹かれて痛みすら感じた。着る服を間違えた、イオは心中で舌打ちをした。ホットパンツは防寒に向かないし、タイツは履いているが所詮一枚の布だ。
物寂しい歓楽街で、イオは突然制服姿の男性に声をかけられた。
「ねえ、きみ」
「……なんですか」
「こんなところで女の子が何してんの」
男をじろりと見てしまった後、イオは悪いことをしたと思ったが、思い返す。だって急に声なんかかけるから。なぜか女の子という物言いが頭にきて、きつい物言いで返してしまった。
「あんたこそ…高校生?制服なんかでうろついたら補導されるよ」
「君は高校生じゃないの?」
「高校なんて行ったこともない」
吐き捨てると、男はポケットから出した紙にオレンジのカラーペンで何かを書き付け、イオに押しつけた。
「これ、なに」
驚いた拍子に紙を受け取ってしまった。ぐしゃぐしゃにされたそれをを広げると十一個の数字とよれて見辛い三つの文字を見つけた。
「…ヨシノ?」
冬の乾いた風がイオと紙を呷る。飛ばされないように力を込めると、紙のしわが増えた。
その日、イオの待ち人は来なかった。

ヨシノはイオの家に居候している。一年ほど前からだ。突然押し掛けてきたヨシノは、今日泊めて、と一言言ったきり居座り続けている。たぶん何か言わない限り居続けるのだろう、そうイオは思っている。
イオはゆっくり時間をかけて、部屋着から仕事用の服に着替えた。仕事用とはいっても、派手なピンク色をしたチープな生地のドレスと言ったような突拍子もない服ではなく、外見はどこにでもいるお姉さんだ。お気に入りの首もとが開いた白のニットを頭からかぶる。中に着たインナーがちらりと見えるように鏡の前で直す。
鏡の中はいつもと同じ部屋のようで、ほんの少しずつ違っていた。例えば時計盤の数字。例えばヨシノの着ているシャツに書かれた英文字。
鏡に映ったあべこべの世界を、イオは本当の世界を見るのと同じくらいかそれ以上の真剣さで見つめた。いつもと変わらないイオの部屋の、あべこべの表情。そこに新鮮味はない。それでもイオは、その部屋の中のものたちに慰められているような気になる。
簡素と雑の境界にあるような狭いアパートの一室でしかないこの部屋に、ヨシノを留めておけるだけのものがあるとは、イオにはとうてい思えなかった。
「じゃあ私行ってくるから、留守番お願いね」
言うと、部屋の奥の方でひらひらと手が振られる。そんなヨシノの行動は、イオには違和感にしか感じなかった。

イオが勤めている店は、歓楽街の端にある。とてもじゃないが、美人局のようなことをしているとは思えない質素なビルの二階だ。第三柊ビルというのかその名前だ。不思議なことに、地図のどこにも第一と第二ビルは見あたらなかった。
その店は固有の名前を持たなかった。書類上の名前はあるとしても、そんな書類に本当のことなど書けるわけもなくたぶんダミーの情報が書かれているのだろう。ただ、客の一部からはネバーランドと呼ばれていたことをイオは知ってる。なぜ取り壊されないかわからないほど古い廃ホテルやどこにでもあるようなビジネスホテルの一室で、何度もその名前を聞いた。少女を消費する永遠の国、なんて皮肉にもならない。
ネバーランドは手前の部屋が事務所になっていて、奥に女の子の待機場所があった。待機場所にはいると、むっとする熱気と化粧独特のにおいがした。嫌になるような女の臭い。
世界のどこかにはもっと劣悪な環境があるだろう。しかしそのことを理解したうえでさえ、イオにはそこが世界の掃き溜めだとしか思えなかった。
「お疲れ様でーす」
こちらを見やる視線に気づきながらも、イオは足早に部屋の奥に向かった。奥にある窓に一番近いソファが、イオの定位置だった。元が何色だったのかわからないくらいには薄汚れて埃にまみれたソファだったが、イオにはあまり気にならなかった。ただあまり部屋の空気を吸えば、陸に打ち上げられた魚よろしく窒息死してしまうだろう。浅い呼吸しかできないままイオが細く窓を開けると、乾いた風が帯のように入ってきた。

「私がいなくなったらどうするの」
帰ってきた途端そう言ったイオに、ヨシノは驚いたように目を瞬かせた。
「いなくなるの?…いいじゃん、俺にはイオがいるんだから」
何度その言葉を聞いたんだろう、イオはふわりと思った。何度目かと同じように、彼の言葉を許して受け入れて、そんな自分をさげすんだってよかった。よかったのだけれど、イオはそうしようと思えなかった。
室内をぐるりと見渡す。どこも変わったところはないが、何一つ味方してくれるものはなかった。イオのいるそこは、もういつもの部屋ではなかった。イオはいつも慰めてくれる旧友たちが一度に自分のもとから去ってしまったように悲しかった。、
なんだか世界のすべてがそっぽを向いてしまったように感じたから、同じ方法で報復しようと、そう思ったのだ。演技なら得意だ。イオは嫌悪を取り繕った。
「もうイイッ!…私出てくよ」
「えっ…あっちょっと待てよ…!」
バタンと大きい音を立ててドアを閉じると、イオは一目散に走った。この生活も、ヨシノも、仕事も何もかもがいやでいやで堪らなかった。すべて切らなければと思った。追っ手から捕まったらすべて終わりだ。
血の味がのどの奥の方からせり上がってくるように感じられた。そういえば、昔逃げ出したときもこんな味がしたっけ、と思わず懐かしくなる。これですべてを切って逃げ出すのは二回目だった。あのときのほうが、今よりずっと必死だったかもしれない。昔のほうが世界を知らなかったから。
途中でちらりと後ろを見たが、どうやらもう追ってきてはいないようだった。もしかしたら最初から追ってなんていなかったかもしれない。だってヨシノは意気地なしだからなあ、と他人事のように思う。それでも、走る足は止めなかった。止めたらそのまま心臓まで止まってしまいそうで恐ろしかった。

適当に足を進めていたせいで、しばらく前から自分が今どこを歩いているのか、イオにはわからなくなっていた。
イオが自分の家以外に帰るところなんて、一カ所しか思い浮かばなかった。仕事以外で行きたくなんてなかったが、家に戻るのは論外なのでしかたなく、ビルの方向に足を向けた。
少女が第三柊ビルの前に立っていた。ビルの前の道は異様なほど人通りが少ない。珍しいな、イオは思った。
ちらりとみた少女は、高校の制服を着ていた。紺のブレザーに赤いリボンタイが目立つ可愛いものだ。イオはついぞ着ることのなかったその服を見ると、ああ、と思う。

「あなたのこと、知りたい」
「なにが知りたいの」
「いろいろ」
「…質問によるよ」
「今好きな人いる?」
「彼氏はいる」
「好きじゃないのに」
「うるさい。…嫌いじゃ、ないよ」
「ふうん」
佳苗はあくまで笑顔だ。その笑顔が、イオには恐ろしい。
「お仕事してる?」
「春を売ってる」
「春…」
「何、意外だって?」
「うん、それもあるけど、意外だなって」
「どういう意味」
「そういうお仕事されてる方は、あまり頭がよくないのかな、と思っていたから」
「……あんた言うね。別に、頭の良い悪いで決めるものじゃないでしょ、こういう職業って」
頭の良い悪いで決めるわけではない。イオは頭の中で反芻する。彼女は確かに賢かったが、だからと言って教育を受けなければいけなかったわけではない。彼女は自分の意思でその権利を放棄し、多くが選択しないどころか考え付かないような道を取った。ただその道が誇れるものではないことを、イオは知っている。
「みたいね、私は選ばないけど」
「あんたねえ…」
あけすけに言う佳苗の言葉は、しかしなぜか嫌悪がわかなかった。あまりにも無防備だからだろうか。
「これからどこにいくの」
くるりとスカートを翻しながら振り向く佳苗は、イオにはまぶしく見えた。イオは高校に行ったこともないし制服を着たこともない。
「ちょっとそこまで」
「私も行っていい?」
「ええ、もちろん」
佳苗は陰りなく言い切ると、するりとイオの手を取った。
「これで迷わなくてすむから、ね」
そう言われたらなにも言えなくなって、イオは素直に手を引かれた。

最終更新:2014年03月17日 19:57